Budo World

武道に身心統合科学の可能性を探る ~嘉納治五郎の事績にならい、今をかんがえる~

Ⅱ.嘉納以前の武道における身心統合論

前林清和(神戸学院大学)

                       

1. 身体性重視の思想

 わが国では、中世以来、身体性重視の思想、つまり体験が体験で終わらず体験知として理論や思想に昇華されたのである。宗教界では道元が「身心脱落」を説き、能楽の世界では世阿弥が「型」を中核とした技の教習体系を構築した。
 そのようななか、中世に台頭した武士たちも生死をかけた生活のなか、その生き死には、身体のあり方を重んじる生き方であった。その後武士たちは江戸幕府が大政を奉還するまで事実上国家の政権を担ってきたのであり、必然的に武道が常に重視されてきた。つまり国家の中核をなす人々が武道を実践したのであり、そのことで武道は単なる殺傷技術ではなく、身体運動文化として確立し、高度な技術論と深遠な心法論を持ち合わせた人倫の道として行われてきた。
 具体的には、武道では修行を通じて技と心を磨くということをシステム化し、身体と心、気と技、我と彼、武器と身体をホリスティックに捉え、実践を通じて理論化してきたのだ。

2. 武道の心

 日本人は、「不動心」という言葉が好きである。しかし、武道では単に動揺しない心ではない。新陰柳生流では、「うごくまいとするは、うごひたる物也。うごくはうごかぬ道理なり」と述べ、更に天神真楊流では「動てうごかず、うごかして動く」と言う。つまり、動揺しないで冷静に相手の動きを見極める心を「不動心」というのだ。
 更に、日本では「心」を単に自我とは捉えていない。我を超えた精神性として「本心」や「無我」という言葉を使い、それを「悟り」と捉えた。
 この悟りの境地では、相手と対峙しても心を何処にも置かないことを良しとし「何処にも置かねば、我身に一ぱいに行きわたりて、全体に延びひろごりてある程に、-中略-其入る所々の用に叶ふなり」とある。

3. 武道と気

 わが国では、身体と精神を一体と捉えるが、それをつなげる、あるいはその全体に及ぶ概念であり同時に実体である存在として「気」がある。
 武道においても「気」を重視する。気を如何にコントロールするかが、重要なテーマであった。気が乱れると心が乱れ、身体が不自由になるからだ。新陰柳生流では、「志は主人也、気はめしつかふ者也。志内にありて気をつかふ也。気がはつし過ぎてはしれば、つまづく也」とある。しかし、気は思うようにはコントロールできず、病気となって我の身心を拘束するのである。これを解決するのが武道の大きな課題であった。

4. 武道の技と身心

 禅宗では、身心一如を説くが、これは坐禅の修行における身心の統一感である。しかし、武道では相手と対峙した際の身心の統一が求められる。たとえば新陰柳生流では、「懸待」という身心の逆対応的統一が説かれている。また天真白井流では、「真空」「赫機」というような気の技を使って相手を制圧する技術が存在したようである。
 柔術では、相手との力の質を問題とする。「事業をなす所、かろくやわらかにして、すらりとこだわりなきを、気の扱いと云いて、このみ用うるなり。おもくがうきにしたるを力の扱いとして、是を甚だ嫌ふなり」と、起倒流では説いている。この力の質の違いとは、物理学的には成立しないが、生身の人間にとっては現実に存在する力の質の違いである。身体に対する外界の刺激は五感を通じて脳に伝えられるが、それを認知し、感じるのは人間の身体イメージである。

5. 武道における身心

 武道においては、理想的な身心とは、常に固定された安定性というよりも、自由で開放された身心が求められていたといえる。そのことが相手の身心をも含めて支配できると考えられる。