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刀剣の思想

三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)

1. はじめに

  前回の話は、剣による呪術(じゅじゅつ)について、つまり剣を使った魔法の技術に関するもので、少しうさんくさい話題でした。刀剣の思想全体の中では非常に重要な部分なのですが、現代社会で剣道をしていく上では、知っておいてもいい話、ということになるでしょうか。
 今回からの話題は、知っておきたい話です。剣道のもつ背景の文化的な広さや深さを実感することができる部分です。
 今回は、三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)についてです。
 剣道の書物には、よく三種の神器のことが記されています。高野佐三郎先生もその著書『剣道』の中でこれを取り上げています。
 三種の神器というのは、(現在一般的に知られることとしては)天皇の位の象徴として代々天皇家に伝えられてきた鏡(八咫鏡(やたのかがみ))・剣(草薙剣(くさなぎのつるぎ))・勾玉(まがたま)(八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま))のことです。したがって、三種の神器は、主に政治や社会制度にかかわる事柄ということがいえます。
 これが剣術の伝書類の中で述べられる。さらに現代の剣道書のなかでも取り上げられることがままあります。
 どういうことかというと、前回までの連載で既にお分かりのように、剣道・剣術の世界で、刀剣は神聖なものでした。この刀剣の神聖性を説明するのに三種の神器のイメージをもってしているということです。
 本来、政治や社会制度の問題であるはずの三種の神器が剣道・剣術の中で重く述べられているところに、剣道をささえる文化的背景の深みを感じることができます。

2. 三種の神器とは

 そもそも三種の神器とは何であったかというと、古代の天皇が〝まつりごと〟の道具として使用したものと考えられます。これを「祭器(さいき)」といいます。
 古代社会では政治と信仰・宗教は分けることのできないもので、天皇はそれこそ呪術をもって祭事を行い集団をまとめる人、つまり呪術王だったわけです。つまり、〝政(まつりごと)〟と〝祭事〟が一体だったわけです。その天皇が使った道具が、鏡と剣と勾玉であり、これが三種の神器となった。
 時代がさがるにしたがいこの道具を次の天皇になる人に受け継ぐようになる。これが制度化するにつれ、儀式的にこれが授受されるようになり、三種の神器は天皇の位の象徴となっていきます。この時点で三種の神器は儀式の道具です。
 しかし、それと同時に依然として神様を祭る祭器としての性格も持ち続けています。このことは現在でも草薙剣が、熱田神宮に神の象徴として祭られていることからもわかります。
 つまり三種の神器は、祭の道具であり儀式の道具でもあった、神の象徴でもあり天皇の位の象徴でもあった、という二重の性格をもつものです。
 では、そもそも信仰・宗教や政治・社会制度に関わるものが、どういった経緯で武と結びついたのでしょうか。

3. 三種の神器と武とむすびつき

 意外なことですが、よく調べてみると、平安時代以前においては、三種の神器が社会的に果たす役割といったものはさほど大きくなかったようです。これは、奈良・平安時代の朝廷で編集された六国史(りっこくし)の一つである『続日本紀(しょくにほんぎ)』にさえ、わずか数ヶ所を除いて神器の記述がなく、記されていても重視して取り扱われていないことからもわかります。
 これが鎌倉時代になると様子が随分と変わります。時代としては、古来の宮廷貴族の世の中から武家が台頭してきて世を治めるようになる歴史的大転換期にあたります。ここで注目すべき史料としては、『平家物語』があげられます。
  『平家物語』は、皆さんご存知のように、鎌倉初期に成立したといわれるもので、当時最大の武士集団であった平家の栄華とその後の没落を描いたいわゆる軍記物語です。
 源平の戦の中で、著しく旗色の悪くなった平家一門は、幼い安徳天皇と共に三種の神器をもって都落ちするのですが、その後、源平双方が三種の神器を巡って激しい争奪戦を繰り広げます。源氏や平氏といった武家が、神器を非常に重視しているということです。このことは『平家物語』に三種の神器に関する記述がおびただしいほどみられることからもわかります。
 前の時代とは異なって、どうしてこういったことが起こったのでしょうか。
 これは、三種の神器を代々天皇が儀式的に受け継ぎ、皇位の象徴とするような一種の社会制度と大いに関係があります。
 この政治上の制度は、当時の社会では、すっかり定着していました。三種の神器は天皇の位を証明するものであって、これをもつ天皇と行動を共にしているということは、彼らの朝廷側の軍隊、(今の言葉で言うと)官軍としての立場を保障するものでした。
 源平いずれにしても武力にものをいわせて戦っているのですが、彼らの武力行使はこの官軍としての立場によってはじめて正当化されるものだったのです。
 悪者か正義の味方かは、ここで分かれるということです。
 ここに、そもそも信仰や政治にかかわる三種の神器が武と結びつく契機があります。
 この後、平家の敗北が決定的とみるや、二位殿(清盛の妻)は宝剣と勾玉をもち、幼い天皇を抱えて壇ノ浦に身を投げます。勾玉は浮かびあがりますが、宝剣は海底に沈んでしまいます。三種の神器中で剣だけが紛失したことによって、逆にこの宝剣が注目、重視され、特殊なものとして扱われるようになります。

4. 草薙剣像の定着

 これが南北朝期や室町期といった次の時代になると、更なる展開をみせます。
 室町初期に成った『太平記』に非常に特徴的な話が収められています。「伊勢より宝剣を奉る事」の件ですが、この話は安徳天皇と共に海底に沈んだ宝剣が出てきたという騒動から始まります。
 円成(えんじょう)という僧侶が海に浮かぶ剣を手に入れたのですが、これが長く紛失していた草薙剣ではないかというのです。円成は京に上って日野大納言資明(すけあきら)という人に間に入ってもらい、この剣が問題の宝剣であるかどうか真偽を確かめてもらいます。結果、夢のお告げによって、この剣は草薙剣であり宝剣がめでたく還った、ということで終わればよかったのですが、この話には続きがあります。当時、朝廷には資明と他にもう一人坊城(ぼうじょう)大納言経顕(つねあき)という人物がいて、この二人非常に仲が悪かった。この宝剣返還の話を聞いた経顕は、資明は佞臣(ねいしん)であり、だいたい「夢うつつ」などというぐらいで夢のお告げなど信用してはいけない、という内容のことを上皇に進言し、この話をないものにしてしまいます。
 面白い話ですが一つ考えさせられるのが、では宝剣草薙剣とは何なのか、ということです。
前の時代、『平家物語』では、三種の神器そのもの、つまり実物を実際にもっていることが大切だったのですが、ここにくると(ある特定の二人の仲が悪いということだけで真偽が覆ってしまうように)、それが本物であるか偽物であるかはあまり問題ではないようです。
 草薙剣を神聖なものとする一種の信仰のようなものは既に確立していて、目の前にあるものはあくまでも象徴であり、それが真に本物であるかどうかということにあまり以前のような価値を置かなくなった、ということかもしれません。
 私はこれを「実在なき象徴性」などといっていますが、草薙剣の神聖性はイメージとして定着していたということです。

5. まとめ

 三種の神器は、武家の台頭によって初めて歴史の表舞台に現れたといっても間違いではないでしょう。
 ここから長い経緯をたどるのですが、大まかにいうと、武士にとって、三種の神器そのものをもつことが彼らの武力行使を正当なものとした段階があり、転じて、実物が存在しなくてもそのイメージが定着しているという段階に展開していったということです。
 これが剣術において、三種の神器のイメージをもって刀剣の神聖性を説明するような考え方につながっていきます。
 ひいてはこのことが剣術において武力、つまり刀剣を振るう術を行使することの正当性にもつながるのかもしれません。

 剣道・剣術の文化的背景、そのの深さの一端を感じることができたのではないでしょうか。