Ⅶ.総 括
パネラー発表ならびにその後の討論をもとに、最後に総括をしておきたいと思う。
今回の議論を通して感じたことは、考察を深めていく前提として、二つの視点が必要であるということである。
一つは、時代ということを考慮すべきということ。もう一つは、武道における心には二つの質の異なる心が関係しているということである。
先ず時代ということを考えた場合、武にかかわる時代は大ざっぱに、弓が主導した中世、剣が主導した近世(江戸時代)、柔が主導してきた近現代に分けることが出来る。弓が主導した中世については、今回は当面考察の対象からはずしている。当然、今後これについての議論も必要となってくるが、ここではひとまず措いておきたい。今回問題としているのは、明治維新を境にその前の近世と、その後の近代についてである。武道史的に解釈すると、嘉納前と嘉納後といってよいかもしれない。それぞれの時代が求めたものは違う。嘉納以前の近世においては、平和な時を重ねてはいたが、時代が武に求めたものは、一つは殺人の技術に関わる身心統合についてである。しかし、嘉納後の近代において時代が求めたものは西洋化、近代化であり、そういった意味では戦闘の術としての武は必要とされない時代である。
心の問題については、寒川氏がはっきりと指摘したように、敵と対峙した際の心と、人間関係にかかわる社会性を前提とした倫理的な心という、全く異質な二つの心の問題が武道にはあるということである。このことについては既に20年以上も前に中林信二氏が指摘しており、前者を芸道的・求道的精神性といい、後者を倫理・道徳的精神性といっている。更に今回、寒川氏は、前者を仏教的(禅的)、後者を儒教的という視点から違いを明確に指摘した。
さて、このことを踏まえて今回の議論を総括すると、本シンポジウムで注目した嘉納治五郎は、古来武道において培ってきた心の問題のうち、禅的な芸道的・求道的な心については熟知してはいたが当面はあえてこれについては封印をし、倫理・道徳的な心に特化して新しく柔道を創成し、武道全体をリードしていったものと考えて良いだろう。それは明治維新以後の西洋化、近代化が進み急激に社会の価値観が変革したあの時代であったからこその動き方であったと考えられる。それ故に、社会に受け入れられた。機を見るに敏であった嘉納の絶妙な計略であったといえる。
しかし今の時代が求めるものは、それだけではない。特に本プロジェクトで掲げる「たくましい心を育む」といったことから考えると、むしろ近世において武術で追求された禅的な芸道的・求道的な心も強く求められているように思う。
これについては、それを封印した嘉納に戻っても見えてはこない。
今回前林氏が概述したような中世後期から近世にかけて成熟した武道古来の禅的心法論、あるいは長尾氏が紹介した山岡鉄舟が追求したストイックな心法論にまで、視線の範囲を広げて、これを身体との関係性の中で現代的に焼き直しつつ、考察し論じていくべきであろう。今の時代、嘉納であればきっとそうしたはずである。
我われは、嘉納を入口に、更に武道本来の身心統合の問題を求めつつ、奥深くへと探求の歩みを進めて行くべきである。このことが、ひいては嘉納同様に、社会に大きく貢献できるものと確信している。
嘉納治五郎生誕150年を機に、”嘉納に倣い、嘉納越え”、まさしく”稽古照[古を稽(かんが)え今に照らす]”、これが嘉納の系統を継ぐ我われ後進の使命かと考える。