長尾 進(明治大学) 月刊『剣道日本』2010年8月号掲載、「常識にクエスチョン」シリーズ所収 『剣道日本』誌の許可を得てここに転載します なぜ、打突部位は面、小手、胴、突の4箇所なのでしょうか? 現代の剣道での「打…
武道史の鳥瞰図
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戦後の武道
日本は昭和16年(1941)から太平洋戦争に突入し、昭和20年(1945)敗戦により終戦をむかえる。その後、昭和27年(1952)まで、アメリカを中心とする連合国軍により占領下におかれる。 軍事色を一掃するということ…
大日本武徳会
明治28年(1895)に武道の統括団体として大日本武徳会が創設される。 大日本武徳会は、武道の奨励・普及・指導・大会の開催・武道家の表彰などの事業を行った。明治32年(1899)には平安神宮境内に武徳殿が完成。明治3…
嘉納治五郎による講道館柔道の創始
中世の武は弓が主導し、近世の武は剣が主導したが、明治維新以後の近・現代の武を主導してきたのは良くも悪くも柔道であるといってよい。 そしてキーパーソンとなるのが嘉納治五郎である。嘉納治五郎とは近世までの柔術を、近代日本…
撃剣興行
明治維新以後の武芸の危機を救おうと、元講武所の剣術師範であった榊原鍵吉という人物がユニークな発想をする。剣術を興行として行おうというのである。 剣士に勝敗を競い合わせ、これにお客を集めて見物させ木戸銭を取ろうというの…
明治維新と武道の危機
明治維新以後、明治4年(1871)の廃藩置県により幕府の下部行政組織であった藩がなくなり、それまで藩から給料をもらっていた武士は失業してしまう。徳川幕府の中では士・農・工・商という階級制度があったが、これがなくなり武芸…
講武所
江戸時代、徳川幕府は例外を除いて外国との交流を絶っていた。内戦もほとんどなく平和な時代が260年以上も続いた。そのことによって武芸は文化として成熟し、人間形成としての意味も含むようになり、また競技としても行われるように…
新流の台頭と江戸三大道場
しない打ち込み剣術は、流派をこえて大変に栄えた。 お互いに自由に打ち合うことができることから競争心をあおり、また面白みも多くなってくることから自然と盛り上がりをみせていった。 また剣道具をつけて行われるしない打ち込…
しない打ち込み剣術
近世中期までの剣術は、形による約束稽古であった。しかしこれがまさしく形だけのものになり、実戦性、実用性から遠ざかっていくのは自然の成り行きである。 当然のことながら志を高く持った人々はこれに疑問を感じていた。そこで登…