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講武所

 江戸時代、徳川幕府は例外を除いて外国との交流を絶っていた。内戦もほとんどなく平和な時代が260年以上も続いた。そのことによって武芸は文化として成熟し、人間形成としての意味も含むようになり、また競技としても行われるようになっていった。
 しかし、幕末になるとペリー率いるアメリカ東インド艦隊が開国を迫って来航するなど、外国からの圧力が強くなった。幕府は危機感から武備に関する改革をはじめ、その一環として武術訓練の場として講武所を開設した。
 講武所においては戦場での必要性から主に剣術・槍術・砲術が重視された。砲術は洋式砲術の調練であり、剣術と槍術はもっぱら試合稽古が中心であった。指導者も家柄よりも実力を重視して選抜された。例えば剣術の指導者として直心影流の男谷精一郎や田宮流居合剣術の窪田清音(くぼた・すがね)などが抜擢されたが、柳生家や小野家などの将軍剣術師範としての家柄の者は登用されなかった。
 また剣術の競技化の契機となった長竹刀を規制すべく、講武所において剣術部門のトップにいた男谷精一郎は竹刀の長さを3尺8寸と定めた。この長さは日本刀の長さ(3尺3寸(約100cm)程度)を想定したもので、なおかつ防具を着用し小手をつけて柄を握ることから真剣より少し長めに定めたという。実戦を意識した長さの設定である。また、ある程度の長さと重さのあるものを使用しての鍛練的効果を期待してのものであったともいう。
 講武所において試合稽古ばかりが行われたことにより、それまで歴然とあった流派間の壁は徐々に取り除かれ、次第に流派同士の交流が進んでいった。このことは明治維新以降、特に剣術が統一されていく一つのステップになったと考えられる。
 しかしこういった努力もむなしく、徳川幕府は崩壊し明治維新をむかえ、日本は近代に進んで行く。

文責:酒井利信