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打突部位

長尾  進(明治大学)
月刊『剣道日本』2010年8月号掲載、「常識にクエスチョン」シリーズ所収
『剣道日本』誌の許可を得てここに転載します

なぜ、打突部位は面、小手、胴、突の4箇所なのでしょうか?

 現代の剣道での「打突(だとつ)部位」は、面部(正面および左右面)、小手部(右小手および左小手)、胴部(右胴および左胴)、突部(突き垂れ)と試合・審判規則において定められています。また、面部のうち「左右面はこめかみ部以上」、小手部は「中段の構えの右小手(左手前の左小手)、および中段以外の構えなどのときの左小手または右小手」と同細則に記されています。これらは、1927年の武徳会規定改正以来、それほど変わっていません。
近世以前の打突部位は、これとは随分違っていました。そもそも、甲冑を着けていた時代には、甲冑の隙間を狙って切ったり突いたりするのが定法であり、甲冑剣術(介者(かいしゃ)剣術)を伝える古流の形には、そうした斬撃や刺突が見られます。近世に入ると、1600年代後半にはすでに道具を着けての剣術稽古が行なわれていたと近年では推定されています(福島大学・中村民雄先生の研究より)が、剣術道具(防具)が工夫・使用されるようになっても、すぐに現代のような打突部位になったわけではありませんでした。
 仙台藩・狭川(さがわ)派新陰流の史料『一貫青山試合始末』(1750)には、「右脇つぼにて一本勝也」「右之方、衣紋(えもん)脇にて勝也」という表現がみられます。狭川派新陰流では通常は「面頬」(面)と「手袋」(小手)を着けての稽古をしていたようですので、「脇つぼ」や「衣紋脇」というのは道具のない箇所であり、道具着用箇所と打突部位が一致していなかったことを表しています(南山大学・榎本鐘司先生の研究より)。
水戸藩伝の神道無念流関係の史料『神道無念流剣術心得書』(1833)にも、一刀流のことについて記した部分に「右の脇つぼへつきこむ」という表現がみられます。また、柳剛(りゅうごう)流については「此方の足を打。他流になきことなり」ともあります。着用する道具も流派によって違っていました。同書によれば、一刀流と直心影流は面・小手・竹具足(胴)、鏡新明智流は面・小手のみ、神道無念流は基本的に面・小手のみ(相手によっては胴も着ける)、柳剛流は面・小手・竹具足・竹の脛当、というようにさまざまです。
 おそらくは、道具を着用した部分を打突することが自明の理となり、かつ、相手との関係において共通の部位を打突するという了解が確立されてゆくのは、流派間の試合や交流が盛んになった天保後期頃(天保の改革による文武奨励もあって、幕府の他流試合に関する禁制が緩やかとなったことが背景にあります)から、今日的完成度に近い剣術道具が作られ流派を超えて着用されるようになる幕末にかけてであったでしょう。他流試合の方法や作法が確立されていく過程において、公平性や安全性の確保ということも視野にあって、
打突部位は次第に収斂されていったものと思われます。
 突部についてはこの連載の第一回目(4月号)でとりあげたように、天保期頃までは面や胴など突く場所は一定していなかったのですが、幕末から明治期になると「突き垂れ付き面」の開発に伴って面の突き垂れ部に限定されていきます(面金部分を突くことによる事故が少なからずあったことも背景にあるかと思います)。その後、明治後期から大正期には大日本武徳会の規定においていったん「胴突き」が復活しますが、1927年規定で再び明確に突き垂れ部となります。また、面部については、幕末頃からとくに正面を打つことが尊ばれるようになります。詳しくは別の機会に譲りますが、これは人体の急所としての観点もありますが、「実際の稽古や試合で正面を打突することは難しい。難しいからこそ、正面を打つことに価値がある」とする考え方がこの頃から出てきます。
 これら打突部位の限定化・狭小化の背景については、これもこの連載でとりあげている隈元実道『武道教範』(1895)のなかに、「真剣は胸を突くべきも、平生は胸より高くして、突きにくき面の垂れを突けと云ひ」、「総て打ちは、真剣に比して、打ち易き所ろを打たず。突きも、突き易き所ろを突かず、修行するものなり」とあるように、「(実戦を想定するなかで)打ちにくい、突きにくい場所をあえて選んで打突することによって、修行の功をあげる」という考え方が近代を通じて支持されていったものと思われます。 
 小手については、その創案された当初は左右とも打っていたのでしょうが、これも幕末頃には右小手を打つことが一般的となっていったようです。たとえば、北辰一刀流「剣術六十八手」の「籠手(小手)業十二手」をみると、12手のうち「左籠手」という技を除く11手が、右小手を打つことを前提として記述されています(高坂昌孝『千葉周作先生直伝剣術名人法』、1884)。ではなぜ、(右手前中段の場合)右小手を打つのでしょうか。これには諸説ありますが、左腰に帯刀している武士が刀を抜く時は右手で抜くこと、右手の負傷は戦闘力を著しく損なうものと考えられること、および箸の扱いにみられるように日本は伝統的に右手尊重社会であること、等々から右手を打つことによって、相手に対して(暗黙のうちに)負けを認めさせるという趣旨があったのかもしれません。
 もうひとつは安全面からの配慮もあったのでしょう。筆者は若い頃(相手の方と打ち合わせのうえで)「右手前中段時の左小手も打ってよい」という前提のもとで稽古したことがありますが、左小手を打たれたあとにそのまま相手の方の剣先が滑ってきて自分のまさしく「左脇つぼ」に入り、激烈な痛みを覚え、しばらくその痛みがひかなかったた経験があります。こうしたことなども、右小手打ちを前提とすることの要因の一つであるのかもしれません。