Budo World

武道に身心統合科学の可能性を探る ~嘉納治五郎の事績にならい、今をかんがえる~

Ⅴ.嘉納とその周辺 ~鉄舟、西久保~

長尾 進(明治大学)

 講道館柔道について、杉江正敏氏は「明治10年に東京大学に入学した嘉納においては、柔術の修行の進行と並行的・同時的に西欧の合理主義がとり入れられ、このことが近代化をなしとげるのに有効に働いたと考えられる。このことから、講道館柔道は『和魂洋才』の心をもって、科学的合理主義がとりいれられた近代的基盤の上に構築された文化といえよう」との見解を示している(日本体育学会第56回大会・体育史専門分科会シンポジウム)。押し寄せる「近代」や「西洋文明」に対しての受容性をもちつつ、一方で違和感も感じながら、近代・西洋文明と日本的なるものとの接点を見出し、また日本的なるものの良さを海外へ「発信」しようとした意識、代表例をあげれば内村鑑三(1861年生れ)や新渡戸稲造(1862年生れ)らの事績にみられるような意識は、彼らと同世代で同じような先端教育を受けた嘉納(1860年生れ)にもあったのではないだろうか。
 「柔道一般並びにその教育上の価値」(1889)における「修心法」の一つとしてとりあげている「大量」の説明(新しい思想を嫌はず容れる性質と、種々様々の事を同時に考えて混淆せしめぬ様に纏める力との、二つを含んでおる言葉)に、嘉納が目指したもの、さらには嘉納そのものが表れているといえよう。
 一方で山岡鉄舟は、明治維新後武術の著しい衰退のなか、何とか武術の命脈を保とうとした榊原鍵吉らの撃剣興行、あるいは西南の役を契機とする治安組織(警察)における武術の再認識(武術家の採用)などの動静にあって、それらとも一線を画しつつ、自らの剣術(無刀流)の目的は単なる技術の訓練や勝敗を競うことではなく、むしろ身心のたゆまぬ練磨こそが主目的であり、換言すれば「見性悟道」に至る道である、との透徹した認識のもと、主宰する道場(春風館)における猛稽古と禅の修行とによって、屹立した剣術観(理念)を打ち立ててゆく。
 こうした鉄舟の理念を、武道の行政上において実現しようとしたのが、西久保弘道(1863年生れ)であった。武道の学校正課編入運動は明治中葉から起こり、明治44年(1910)には撃剣と柔術が中学校の随意科目として認められたが、西久保はその内実の貧困さを憂えて、武道を通じた身心練磨による「武士的気質」の養成、武道・剣道・柔道という呼称の統一、武道教員の質・量の改善などの言及を、行政官吏・貴族院議員・大日本武徳会副会長という経歴を通じて働きかけてゆく(西久保については、有田祐二氏の研究に詳しい)。西久保は、鉄舟との直接の面識はなかったとされるが、山梨県内務部長時代における香川善治郎(鉄舟の高弟)との邂逅が、無刀流への傾倒を促したといわれる。
ここに掲げた嘉納と、鉄舟・西久保のそれぞれの事績は、近代武道の形成過程についての多様性・個別性を示したものであり、今日の柔道・剣道それぞれのあり様にもさまざまな面でその影響を及ぼしている。