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刀剣の思想

古代中国呉越(ごえつ)の剣

1. はじめに

 剣道の文化性は遥か深いものだという、半ば信念にもとづいて話を推し進めてきましたが、今回ついに刀剣の思想、特に剣の観念の原点にたどり着くことになります。
 既に話は古代に関して東アジア三国を叉にかけての壮大な展開になっていますが、いずれも核になっている考え方は剣を神聖視する観念です。ではこういった考え方はいつ頃、どこで、どういった経緯で起ってきたのでしょうか。
 特に古代の中国文化は知の発達が著しい文化です。日本が武を中心に歴史が展開してきたのに対して、中国は革命などの特殊な場合を除いて知(文)が歴史を主導してきたといってよいでしょう。必然的に知的財産として素晴らしい書物が多く残されています。類書(るいしょ)というものがありますが、これは文士が詩文を作るときや科挙(かきょ)という官吏登用試験の勉強をするときに大いに活用されたといわれるもので、今でいう百科事典のようなものです。 具体的には『北堂書鈔(ほくどうしょしょう)』や『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』『太平御覧(たいへいぎょらん)』という文献で、実に多くの事例をあげているところに特徴があります。ここに引いている膨大な数の事例を注意深くみてみると、刀剣の思想の始点が見えてきます。
 今回は古代中国、春秋時代の呉(ご)や越(えつ)といった地域にまつわる剣の観念に関する話です。

2. 泰阿(たいあ)剣

 わかりやすい事例をあげると、『荘子』「外篇、刻意篇第十五」には「夫れ干越(かんえつ)(呉越と同じ)の剣を有(たも)つ者は、柙(はこ)にしてこれを蔵(おさ)め、敢(あ)えて軽々しくは用いず。宝とするの至りなり」(呉や越で作られた剣をもっている者は、それを箱にしまいこんで軽々しく用いたりはせず、宝物として最上の扱いをする)などと記されています。当時、呉や越の剣が宝剣として広く有名であったことがわかります。
 呉越の剣、ここが剣の観念の始点と考えられます。
 このあたりのことを記した文献として『越絶書(えつぜつしょ)』というものがあります。これは後漢の袁康(えんこう)・呉平(ごへい)という人が著したといわれるもので、内容的には春秋時代の呉や越、その周辺の楚(そ)といった国の興亡などを記した、歴史と小説の間に位置づけられるものです。
 この『越絶書』に次のような話が載せられています。
 楚の国の風胡子(ふうこし)(剣の鑑定士)は泰阿(太阿)ほか三つの鉄剣を作らせました。この名剣の話を聞いた晋(しん)の国の王は、この剣を欲しがったのですが叶わなかったため、楚の城を三年にもわたって兵をもって包囲してしまった。城内の食料もつきて絶体絶命の窮地におちいってしまいました。以下原文のつづきを載せてみます。
 是(ここ)に於て楚王これを聞き、泰阿の剣を引き、城に登りてこれを麾(ふ)る。三軍破れ敗れて、士卒迷惑し、流血千里、猛獣欧瞻(おうせん)し、江水折揚して、晋鄭の頭(こうべ)畢(ことごと)く白し。楚王是(ここ)に於て大いに悦(よろこ)び、曰く、此(こ)れ剣の威なるか、寡人(かじん)の力なるか、と。風胡子対(こた)へて曰く、剣の威なるも、大王の神に因る、と。
 (楚の王はそのことを聞き知って、泰阿の剣を手にもち、城楼に登ってみずから軍を指揮した。晋の大軍は壊滅的な敗北をして、兵隊はみな精神が混乱し、流血は千里に及び、猛獣さえも驚き恐れ、長江の水さえも環流して広がり、そのため晋の鄭王の頭髪は真っ白になった。楚の王は大いに喜び言った。「これは宝剣の神威なのだろうか、それとも私の力なのだろうか」と。風胡子は答えて言った。「宝剣の神威によるものです。しかし大王様の神勇があってのことです」と)
 非常に面白い宝剣伝説です。この話には二つ注目しておきたいことがあります。
 一つは、ここで泰阿剣は単なる武器を越えた超越性をもって語られているということです。それは楚の王がこの剣をもって超人的に多くの敵を斬ったということではなくて、剣を麾(ふ)った、指揮したにすぎないにもかかわらず敵は大敗したことからも明らかです。
 こういった話の雰囲気は、日本の草薙剣(くさなぎのつるぎ)や韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)の伝説にも似たところがありました。
 二つ目は、ではこの剣の神聖性がどのくらいのものであったかということに係わります。つまり持ち主がすごかったのか、剣がすごかったのかということです。
 例えば、よく中国の宝剣伝説として引き合いに出されるものに、高祖が三尺の剣をもって蛇を斬った話があります。ここでの蛇は秦(しん)王朝(あるいはこの国の皇帝である始皇帝(しこうてい))を表していて、この話自体は高祖が秦(蛇)を滅ぼし漢王朝を興したことを象徴的に表しているといわれています。ここに登場する剣は、後に高祖が前漢の皇帝になったことによって異常に神聖視され現在にまで語り継がれています。しかし、高祖が蛇を斬った時点では、この剣が別の剣であったとしても高祖は蛇を斬り漢の皇帝になっていたでしょう。つまり、三尺の剣ではなく、高祖がすごかったわけです。
 では、ここにみた『越絶書』の一節ではどうであったかというと、王の「これは宝剣の神威なのだろうか、それとも私の力なのだろうか」という問いに、風胡子は「大王様の神勇もあってのことです」と気を使いながらも「宝剣の神威によるものです」と言い切っている。つまり泰阿剣のほうがすごかった。この時点でかなりの超越性をもって神聖視されていたということです。

3. 時代による超越

 ではここで、なぜ剣はそれほどまでに神聖なものとされていたのでしょうか。
 このことに『越絶書』は明確に答えてくれています。
 まず次のような問いかけをします。
 夫(そ)れ剣は、鉄のみ。固(もと)より能(よ)く精神の此(かく)の如き有るか、 (そもそも剣はただ鉄でつくったものだ。そのような鉄にもともとこのような神威があり得るのだろうか)
 これに対する答えとして次のような内容を記しています。
 「時らしむる有り」。つまり、時代がそれぞれそうさせるのだ、といいます。古より当時までを段階的に分け、まず軒轅(けんえん)氏、神農(しんのう)氏、赫胥(かくしょ)氏の時代には石を用いて武器を作っており、宮室を作るにも折れた樹木を拾ってきて使っていた。黄帝(こうてい)の時代には、玉(美石)で武器を作り、伐採した樹木で宮室を造営していた。玉も当時としては神物であった。禹(う)王の時代には、銅を用いて武器を作っていた。そして今のこの時代では、鉄で武器を作り、この威をもって大軍をも支配下におき、天下に服従しない者はない。
 つまり石器の時代があり、銅器の時代があり、そして今鉄器の時代になっている。それぞれが各々の時代において最先端の文明であり、それゆえに神聖なものとされたという理屈です。
 そこには、これまでみてきたような道教や星辰信仰などとの係わり以前の、至って純粋、原始的な理由があったわけです。

4. 武器としての剣の超越

 では、この時代、この地域で、なぜ最先端文明であるところの武器が剣であったのでしょうか。
 春秋時代というのは、紀元前770年から前403年の約360年間をいい、戦争が絶えず、弱肉強食のどろどろとした混乱期です。
 当時の戦いは馬で人を乗せた車をひく戦車戦が主でしたが、たまたま今回の話の舞台である呉や越、その周辺の楚といった地域は、湖や沼、河川が多くてこれに適さなかったため、歩兵による白兵戦が行われていました。そしてそこで使われていた主要な武器が剣であったということです。
 その剣は最先端文明であるところの鉄で作られ、それ故に神聖視されるようになります。つまり、剣を神聖視する観念のはじまりは武器としての実用性です。
 剣の武器としての実用性は、最先端技術の結晶であったがために日常を遥かに超越していたであろうし、だからこそ神聖視され、ひいては先にみた宝剣伝説を多く作り上げていったということです。
 春秋時代の呉越地方は、剣が武器として全盛の時代であり、そして最も輝ける舞台であったということです。

五、おわりに

 その後、武器としての実用性は、漢の時代を境に直刀に移っていきます。戦場から姿を消した剣は、既に皆さんとみてきたように、道教などの信仰や宗教の世界に活躍の場を移すことになります。
 本当に随分遠いところまで来ましたが、これが刀剣の思想、中でも特に剣を神聖視する観念の原点です。