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新流の台頭と江戸三大道場

 しない打ち込み剣術は、流派をこえて大変に栄えた。
 お互いに自由に打ち合うことができることから競争心をあおり、また面白みも多くなってくることから自然と盛り上がりをみせていった。
 また剣道具をつけて行われるしない打ち込み剣術はある程度の安全性が確保されているため、長らく禁止されていた他流試合が解禁となり、このことが流派間の交流をうながして全体として栄えていった。
 真剣や木刀による他流試合は相手を殺傷するものであったため必ず遺恨を残すことから、幕府は長らく他流試合を禁止していた。これが解禁になったのは、一説によると天保年間(1830~1844)であったといわれている。しない打ち込み剣術の登場が他流試合解禁のきっかけとなり、この解禁が今度はしない打ち込み剣術の隆盛に影響を与えた。
 江戸時代中期から後期にかけては、しない打ち込み剣術による試合稽古に秀でていた流派が随分と隆盛した。伊庭是水軒秀明(いばぜすいけんひであき)が創始した心形刀流(しんぎょうとうりゅう)や中西忠太子定(たねさだ)が初代である中西派一刀流、千葉周作成政(しげまさ)が興した北辰一刀流、逸見太四郎義年(へんみたしろうよしとし)が流祖である甲源一刀流、福井兵右衛門嘉平(かへい)が流祖である神道無念流、山田平左衛門光徳(みつのり)が流祖の直心影流、桃井八郎左衛門直由(なおよし)が流祖の鏡新明智流などがあげられる。
 天保年間(1830~1844)から安政年間(1854~1860)にかけて、当時の日本の首都ともいえる江戸では町道場が大いに栄えた。
 剣術を含めた武芸は本来武士が行うものであり、町人や農民が行えるものではなかったが、この時代そういった決まりが効力をもたなくたってきており、武士でないものが剣術を行うようになってきた。そういった事情から、禄(給与)の安い下級武士や武士以外の身分の者が剣術を習い、そしてこれを教えて生計を立てるようになってくる。これが町道場といわれるものである。
 特に江戸には、三大道場といわれるものがあった。
先ずは北辰一刀流の千葉周作がやっていた「玄武館」。門弟は3600人もいたといわれている。門弟の中には有名な坂本竜馬もいた。千葉周作は中西派一刀流を学び、天下の一刀流の系統を継ぐものである。現代剣道に技術的に与えた影響は大きい。
 二つ目は、神道無念流の斉藤弥九郎がやっていた「練兵館」である。門弟には日本を明治維新へとつき動かした高杉晋作や桂小五郎などがいた。
 三つ目は、鏡新明智流、桃井春蔵直正(もものいしゅんぞうなおまさ)の「士学館」である。
 以上の「玄武館」「練兵館」「士学館」を江戸三大道場といい、「技は千葉、力は斉藤、位は桃井」などと言われた。
 その他に、後に講武所の剣術師範になった直心影流の男谷精一郎がやっていた男谷道場なども有名であった。

文責:酒井利信