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塚原卜伝

塚原卜伝(新当流)
延徳元年(1489)-元亀2年(1571)

 塚原卜伝は、伝説によれば、17歳のときに京の清水寺ではじめて真剣勝負をして以来、真剣での試合が19度、戦場に出たことが37度あり、木刀を使っての試合にいたっては百度におよぶといわれ、その間に矢傷を6ケ所受けたほかは無傷であり、討ち取った敵は212人にも及ぶと伝えられる。室町時代に名を馳せた日本武道史上屈指の剣豪である。

武の聖地・鹿島が生んだ天才

 卜伝は、鹿島神宮を中心とした特異な剣の文化が生み出した天才である。鹿島神宮は、皇紀元年に創建された武神タケミカヅチを祀る社であり、現在まで変わることなく武の聖地として信仰を集めている。仁徳天皇の頃(5世紀前半)に国摩真人(くになづのまひと)という人が鹿島神宮のご神域に祭壇を築いて日夜祈祷した結果、神妙剣という極意を授かった。以後この技術を、吉川家を中心とした鹿島神宮の神官たちが伝えてきた。これを鹿島の太刀といい、時代が下がるにつれ鹿島上古流、鹿島中古流とその名称を変えてきた。
 卜伝は、延徳元年(1489)、鹿島の太刀を代々継承してきた吉川の家に次男として生まれる。幼名を朝孝(ともたか)といい、父である覚賢(あきかた)から家伝の鹿島中古流を仕込まれる。吉川家は、武術を伝える家柄であると同時に鹿島神宮の卜部職であった。卜部とは、卜占(占い)を専門とする神職のことである。毎年正月14日の歳山祭(としやまさい)で亀卜(亀の甲羅を焼き、できた裂け目で吉凶を占う)により得られた結果は、「鹿島の事触(ことぶ)れ」として全国に伝えられた。つまり卜伝は、血筋が呪術的であるといってよい。後に実家の卜部の字をとって、卜伝と称した。10歳の頃、乞われて塚原城主であった塚原土佐守安幹(やすもと)のもとに養子に行き、元服後に塚原新右衛門高幹(たかもと)と名を改めている。養父である塚原土佐守は香取神宮に縁の深い天真正伝香取神道流の流祖である飯篠長威斎家直の高弟であり、卜伝に香取神道流を伝授した。卜伝は、幼少より実父と養父から鹿島の太刀と香取の太刀の2つの流儀を教え込まれ、若くから抜群の剣技をもって頭角をあらわすことになる。

卜伝の修行と秘剣「一(ひとつ)の太刀」

 卜伝は、生涯で10年以上にもわたる廻国修行を3回も行っている。彼の戦場での武勇伝のほとんどが、1回目の廻国修行(永正2年(1505)-永正15年(1518)頃)のことであったと言われている。卜伝は、1回目の廻国修行から帰郷するや、参籠修行に入る。これは鹿島神宮のご神域に籠りきって武神タケミカヅチに祈りながら剣の修行をするもので、一千日にもおよぶ過酷な修行であった。多くの命のやり取りを経験し、精神的に大きな痛手を負って帰郷した卜伝をみかね、師である松本備前守政信がこの参籠修行をすすめたと伝えられている。卜伝はこの参籠修行により、霊夢を介して武神タケミカヅチから「一の太刀」の極意を授かる。以後、卜伝の剣技を伝える流派を新当流と称している。
 「一の太刀」は唯授一人(ゆいじゅいちにん)(他流派でいう一子相伝)の奥儀であり、一説によると伊勢の国司であった北畠具教(とものり)に伝えたと言われている。卜伝には彦四郎幹重(みきしげ)という養子があったが、「一の太刀」は既に北畠に伝授しており、唯授一人のため直接教えるわけにはいかないので、北畠から伝授してもらうように申し渡したとも伝えられるが、諸説あり史実はわからない。他にも、将軍足利義輝や徳川家康の師であった鹿島の松岡兵庫助則方に「一の太刀」を伝えたという説もあるがこれも定かでない。いずれにせよ現在には伝えられておらず、早くに失伝したものと思われる。

卜伝の逸話

 卜伝には逸話が多い。これが史実であるかどうかは疑わしいものが多いが、いくつか紹介しておきたい。有名なものとして、狭い部屋の中でいきなり斬りつけられた際3尺の大刀では用に立たないことを瞬時に判断して、とっさに腰の小刀を抜いて相手のわき腹を刺して倒した話がある。さらに、飛燕や雉、鴨などを自在に薙ぎ斬り、事前に斬る部位を告げてから人を斬ることもできるという長刀の名人、梶原長門(ながと)との試合で、刃渡り1尺4寸の小長刀の柄を切り落とし、間髪を入れずに踏み込んで一刀で斬り伏せた話がある。他にも片手斬りの名人との試合に際し、事前に「片手斬りは卑怯であるから止めるように」との使いを再三出し、卜伝が恐れていると思わせて相手の慢心をさそい、その心理作戦によって相手を斬った話などがある。以上の3つの話は、2回目の廻国修行(大永2年(1522)-天文2年(1533)頃)の時の話であるという。他には、琵琶湖を渡す船の中で試合することになった相手を離れ小島に誘い、先に島に降りた相手を置き去りにして戦わずして勝った「無手勝流(むてかつりゅう)」の話なども有名である。3回目の廻国修行(弘治2年(1556)-永禄9年(1566)頃)では、大鷹3羽に乗り換えの馬3匹をひかせ、大勢の門人を引き連れて諸国を廻るという派手な演出もしたようである。

卜伝の後半生

 

画:ピンテール・ペーテル

若い頃には華々しい武勇伝を持つ卜伝であるが、歳を重ねるにつれ徐々に命のやり取りをするような試合を控えていったようである。2回目の廻国修行から帰国後に塚原城主となった卜伝は、45歳で妻を娶るが10年ほどで死別する。弘治2年(1556)頃であったと思われるが、卜伝は塚原城主の地位を養子である彦四郎に譲り、禅に帰依して剃髪し入道となる。鹿島神宮の神職の家に生まれた卜伝が晩年入道になるという、当時の神仏習合の様子がよく見てとれる。
 卜伝は、元亀2年(1571)、83歳の長寿をまっとうし、弟子である松岡兵庫助の家で亡くなっている。

文責:酒井利信