酒井 利信(筑波大学)
はじめに
日本は、中世以来、明治維新までの実に700年以上もの間、武士が国をリードし政治を司ってきたという特殊な歴史をもっている。こういった歴史は、世界的にみても稀である。
日本の文明、文化といったものの多くは、古来、先行するものが中国から朝鮮半島を経由して伝播し、これが成熟して形成されてきた部分が大きい。しかし湯浅泰雄氏[1]なども指摘するところであるが、中国や朝鮮においては、儒教を中心とした文に携わる者が官僚として支配権力をもち、武は卑しいものとされてきた。いわゆる「文尊武卑」「崇文軽武」の思想である。つまり、武は革命などの混乱期においては歴史の表舞台に出てくるものの、治まった世においては裏方に回り、常に文が国政をリードしてきたといってよい。日本・中国・朝鮮からなる東アジアという非常に関係が密な文化圏においてさえ、長きにわたり武士が国を主導してきたという日本の歴史は特殊である。
武士は本来戦闘員であるが、それだけに終始することなく、国を治める為政者としての性格をもつに至り、様々な文化的素養をも身につけた文化人としての側面を備えるようになっていく。特に治世の続いた近世(江戸時代)においてこの傾向は顕著であり、武士が文化の担い手であったといっても過言ではない。
その意味で、日本文化史を知るには、武士の理解が不可欠である。
いきなり結論めいたことを述べるが、日本の武士を理解するには、神話が大きく関係してくる。
たとえば井沢蟠竜(いざわばんりょう)が著わした『武士訓』には、「そもゝゝ武士(もの丶ふ)のはじまりをたづぬるに。ちはやぶる 神代(かみよ)のむかし。天御中主尊天照太神(あめのみなかぬしのみことあまてらすおおみかみ)。盟二皇孫天津彦々火瓊々杵尊一曰(ちかひてすめみまあまつひこひこほのににぎのみこといわく) 。…」といった記述がみられる。ここには、武士の出自を『古事記』や『日本書紀』に記される古代神話(ここでは天孫降臨神話)に求めるような観念がはっきりとうかがえる。こういった記述は『武士訓』に限ったことではなく、頻繁にみられる傾向である。
また、武士の本業ともいえる武芸においても、その武芸流派の理念なり極意なりを記す武芸伝書において神話に関する記述が散見される[2]。
少し時代をさかのぼったところで言えば、源平の戦いにおいて源氏と平家双方が三種の神器の激しい争奪戦を繰り広げる。三種の神器とは、天皇の位の象徴である鏡(八咫鏡(やたのかが))と剣(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ))と勾玉(八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま))のことである。なぜ彼らが三種の神器に執拗なまでのこだわりをもったのかといえば、天皇側の軍(官軍)として戦っているのか、それとも天皇に弓引く賊軍として戦っているのかという区別が、この三種の神器を持っているかどうかにかかっていたからである。このあたりの様子を描いたのが『平家物語』であるが、これには「剣巻」という古代神話を語る部分がある。軍記物語になぜ神話の記述があるのかというと、この三種の神器(この場合、特に剣)の皇位の象徴としての尊貴性といったものが、神話の記述によって保証されるような観念が当時すでに確立されていたからである。
古代神話の中で語られるイメージといったものは、長く日本人の心の奥底に潜在し続け、これが確かな力として作用し続けてきた。日本の武士とて例外ではない。それ故に、ここでごくわずかであるが確認したように、彼らは自らのアイデンティティーの表徴である武というものの本質を神話のイメージによって認識している。
武の解釈には大きく三つある。一つ目は、よく言われるところであるが、武という語を会意文字として理解し、「戈(ほこ)(武力)を止 (と)める」ものであるとする解釈である[3]。悪者の武力を自らの武で止めるという、平和な世においては随分と聞こえの良い解釈である。二つ目も会意文字としての理解であるが、「戈(武器)をもって止(あし)(足)で進む」という解釈である。そもそも古代中国において、この語は本来的にはこの意味であったという主張がある[4]。いたって殺伐とした意味内容であるが、武の敵を倒す技術としての側面をダイレクトに含みこんだ解釈である。三つ目は、全く異なった観点からの理解として、「武は舞」であるという解釈である。いたってシャーマニズム的な観点からの理解であり、人間の力ではいかんともしがたい事柄を解決しようとする際、神の力をかりる方法として、武器をもって神々の前で舞うという、武を呪術として理解する仕方である。以上、武に関する三つの解釈であるが、いずれが正しくていずれが間違っているということではなく、日本においてはそれぞれの時代においてそれぞれの意味が対応していると私は考えている。つまり古代日本における呪術宗教的観念が支配的であった社会にあっては、「武は舞」であったし、中世における戦国乱世にあって武は「戈(武器)をもって止(足)で進む」ものであったし、近世江戸時代の治世において武を生業とする武士にとっては、武は「戈(武力)を止める」ものであるという大義が必要であった。結論を先取りするようであるが、このうち日本において最も古くから観念され、かつ各々の思考のベースになっている本質的な部分が「武は舞」であるという武の呪術的な性格である。この観念は、古代日本の神話の中にうかがうことができる。後世、武士道書や武芸伝書、軍記物語などにも、唐突に神話が記述される理由はここにある。
本稿は、大きく武士というものを考える上で、武士そのもののアイデンティティーを武ということに焦点化させ、その本質を神話の中に読み解こうとするものである。日本神話の世界というのは、実に奥深く、また立ち位置により様々な読み方ができるロマンのある世界である。本稿では、神話の世界を旅しつつ、その中で語られる武について思いを馳せてみたい。このことがひいては日本精神史を特徴づける武士の理解にもつながるはずである。
尚、本稿において取り扱う神話は以下の通りである。話の進め方としては、それぞれの話題にそって関係する神話を引いてくる方法を取りたいと思う。したがって、そもそも『古事記』や『日本書紀』に記されている順序とは異なってくる場合がある。記紀神話の記述に時間軸を想定してよいのかどうかは議論を要するところであるが、全体の中でどこの神話を取り扱っているのかわかりやすいようにするため、以下に示しておきたい。
・国生み神話
・火神の神話
・ヤマタノヲロチ神話
・根の国神話
・アメノワカヒコ神話
・国譲り神話
・天孫降臨神話 ↑ 神代
・神武東征説話 ↓ 人代
・神武皇后選定説話
・ヤマトタケルの東征
天沼矛(あめのぬぼこ)による神話世界の創成
日本神話の世界は、基本的に天上界である高天原(たかまがはら)、下界である葦原中国(あしはらのなかつくに)、地下の国である黄泉国(よみのくに)あるいは根の国といったように、垂直方向にそれぞれが重なる世界観で構成されている。高天原は神々の世界であり、葦原中国は人間界あるいは(天上界にいる天(あ)つ神(かみ)に対して)国(くに)つ神(かみ)が支配する世界である。黄泉国とは死者の国であり、根の国は死者の国ではないが地下に位置づけられる世界である。
『古事記』や『日本書紀』に記される日本神話においては、まずこういった世界の創成が国生み神話として語られている。
まだ天地の区別も定かでない混沌としたカオスの状態から、天つ神の命をうけたイザナギとイザナミという男女の二神が国土を呪術的に生んでいく。イザナギとイザナミの二神は、天の浮橋という天空の橋に立ち、天沼矛という玉飾りのある矛を指し下してコオロコオロと音を立てながら海水をかき回す。そして、これを引き上げたときに矛の先から滴り落ちた潮が積もり、一つの島ができた。これをオノゴロ島という。イザナギとイザナミの二神は、この島に降りたち、協力して次々と国土を生んでいった。
以上が神話世界が創成されていく国生み神話の概要であるが、重要なのはこれが天沼矛によってなされているということである。
『古事記』や『日本書紀』に記されている神話世界といったものは、実は新しい世界観によって構成されている。つまり、神々の世界を垂直上方にみるような神話世界は新しい世界観であり、そもそも日本に古くから語られてきた神話においては神々の世界は水平方向にあったということが言われている[4]。筆者もこの説に賛同するものである。『古事記』や『日本書紀』は周知のとおり勅命により編纂されたものであるが、そもそも語部(かたりべ)
たちによって語り継がれてきた日本神話が、文章として記述されていくまでの間に、新しい神話世界に再構築されていった。そこには絶対的な超越者を頭上の天に求める、中国の天命思想の影響があるとも考えられる。
こういった新しい神話世界が、これも中国伝来の新しい文明である金属器の矛によって形成されていくことを語るのが、ここにあげた記紀神話にみられる国土創成である。
神話において語られる武器としては剣が圧倒的に多い。追ってみていくが、これは神聖なる呪具として語られている。一般的に刀剣ということがいわれるが、刀と剣は違う。刀は片刃であり、剣は両刃(諸刃)のものをいう。この区別は中国大陸において既に明確になされていた。より神聖なものとされてきたのは両刃の剣である。武器としての刀に対して、剣を神聖なる祭器としてみる思想は、既に古代中国において形成されていた。これについての詳細な論考は別稿に譲る[5]。しかしここでは矛が重要な役割をもって活躍している。この部分は、記紀神話における武器の初出である。しかし矛がこの後神話の中で重要な役割を担って記述されることはない。矛とは、両刃の剣に長い柄をつけたものである。なぜここで剣ではなくあえて矛が登場したのかというと、天上と地上が垂直に重なる世界観を形成する神話において、天地の隔たりを表現するには長い柄のついた矛でなくてはならならなかった。剣では下界に届かず、十分に神話世界を表現することができない。そういった思考が潜在していると筆者は考えている。
武神タケミカヅチの誕生
次に注目したいのは、火神の神話である。
ここで武神タケミカヅチが誕生する。
イザナギとイザナミの二神は、国土を生み終わると、今度は様々な神々を生む。古代日本はアニミズムの世界であり、あらゆるものが神として観念された。神話の中で二神は、海の神、風の神、木の神、山の神、野の神といった様々な神々を生むが、最後に火の神であるカグツチを生んだことによりイザナミは焼き殺されてしまう。悲嘆にくれ、そして怒ったイザナギはもっていた剣で火の神カグツチを斬り殺す。この時に飛び散った血から様々な神々が生まれた。これらは、火に関係する神、天から火を運ぶとされる雷に関する神、岩に関する神、水に関する神といったものであった。
この神話の背景には、火に対する信仰が潜在する。古代日本において火はあらゆるものを焼きつくすものであり、畏怖の対象であった。これが神話の中で母親をも焼き殺すものとして描かれている。しかし文明の進歩に伴い人間は火を使うようになる。そのためにこの神話の中で、古い畏怖の対象としての火の神は、新しい文明の象徴である剣によって斬られることになる。ここで注目したいのは、火の神を斬ったことにより新たに生まれてきた神々についてである。ここで登場した火に関する神(火の根源としての雷の神)、岩に関する神、水に関する神は、鋼を火で真っ赤に焼いて岩の上で鍛え、水に入れて焼き入れをする刀剣の鍛造に関わる神々である。つまり、古い畏怖の対象としての火に代わって、最先端文明の表徴である刀剣を作る火が生まれたことを語る神話である。
特筆すべきことは、ここで後に武神として日本の武の思想を中核となって主導することとなる、タケミカヅチが誕生しているということである。タケミカヅチは雷神でもあり、様々な側面をもつが、本質的には剣の神である。後に国譲り神話において、この火の神カグツチを斬った剣が神格化したヲハバリという神の子として描かれていることからもわかる。このことがタケミカヅチが武神として崇められるゆえんでもある。
神話における武を考える上で、重要な件である。
武神タケミカヅチの降臨
武神タケミカヅチが最初に神話の中で活躍するのは、国譲り神話においてである。
この神話の背景を説明すると、高天原の統治者であったて天照大神(あまてらすおおみかみ)は、下界である葦原中国をも自分の子孫に統治させようと考える。しかしその段階で、葦原中国は大国主(おおくにぬし)という国つ神が治めており、また荒ぶる神が大勢いる騒がしい世界であった。そのために天照大神は、先ずはこの国を平定するために使者を派遣する。紆余曲折あったもののここで最終的に遣わされたのが、武神タケミカヅチである。以上のような経緯である。
タケミカヅチは、高天原から葦原中国の伊那佐(いなさ)という浜に降りていき、そこで波打ち際に持っていた剣を逆さまにして切先を上にし、柄を下にして突き刺した。そして、その剣の切先の上に胡坐をかいて座り、大国主に統治している国を譲るように迫る。大国主はその判断をコトシロヌシという息子に託すが、意外なことにこの息子はあっさりと承諾をする。しかし別のタケミナカタという息子が現れ、これと争うことになる。その際、タケミカヅチの手は刃に変化し、さらにタケミナカタをいとも簡単に掴んで投げてしまう。その結果、これも国を譲ることを承諾せざるを得なくなる。見事に国譲りの交渉を成功させたタケミカヅチは、天上界に戻っていき、これを天照大神に報告した。
ここでのタケミカヅチとタケミナカタの戦いを相撲の起源とするような説もあるが、この真偽は別として、ここでは相撲という武を神話的イメージをもってオーソライズするような思想を確認するにとどめておきたい。
霊剣―韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)の降臨
武神タケミカヅチが神話の中で次に重要な役を担って登場するのは、神武東征説話[6]においてである。
神武つまりカムヤマトイハレビコは、初代の天皇と伝えられる人物である。神武は、九州の日向を出発し東へと戦いを進め、国土を平定して大和国の橿原宮(かしはらのみや)で初代天皇として即位する。その過程を記したものが神武東征説話である。
神武は東征の最中、熊野で荒ぶる神の毒気に当たり気を失って倒れてしまう。彼の軍隊も同様に倒れてしまい、国土平定の大業もならないかという絶体絶命の窮地が、ここでの場面設定である。
神話上、天皇は天照大神の子孫ということになっており、天上界でこの状況を見ていた天照大神は、武神タケミカヅチにこれを救出するよう命じる。タケミカヅチが国譲りの大役を見事に果たしたことがある経緯からの命であった。しかし、タケミカヅチは自ら下界に降りることはなく、かつて伊那佐の浜で使ったあの剣を代わりに降した。その方法は、高倉下(たかくらじという人の家の倉にこの剣を落とし入れ、夢を介してこれを告知するというものであった。夢から覚めた高倉下は、本当に倉にあった霊剣を神武に献上したところ、神武はこの剣の霊威により正気を取り戻し、荒ぶる神はこの剣を振るうことなく自然と斬り殺されていたという。この霊剣を韴霊剣という。
この神話で注目すべきは、国譲りの際に一心同体であったタケミカヅチと剣が、この段階では分離している。つまり、天上界にいるタケミカヅチという武神のもつ力を、下界において発揮するのがこの韴霊剣という霊剣である。
ここで少し考察を深めておきたい。『古事記』や『日本書紀』に記されている神話の並びに時間軸を設定してよいかということについては慎重を要するが、同じタケミカヅチと剣に関する神話でも、国譲り神話の段階とこの神武東征説話では、精神世界のステージが異なることは確かである[7]。例えば『古事記』は三巻からなり、上巻に主に神々の話である神話が神代のこととして記され、中巻以降は歴代天皇を順におった形で人代の話が記述されている。国譲り神話は神代の神話であり、神武東征説話はちょうど中巻の始まりに当たり、神代と人代の境にあたる。この違いがタケミカヅチの動きにでている。つまりタケミカヅチは、国譲りの時には天上界から下界に降りてきたが、神武東征においては自らは降りてこない。これは労を惜しんでのことではなく、神話における精神世界の違いによると私は考えている。神代においてはまだ天地の境がさほど明確ではなく、神も天地を行き来している。しかしステージが進むにつれて天地の区別は明確となり、神でさえも天地を行き来できなくなる。これが神武東征の際の精神世界である。つまりタケミカヅチが、以前のように降りて行きたくても行けないほど天地の境がはっきりとしていた。しかしこの霊剣だけは降りて行けた。ここにこの剣の神聖性の際たるものがある。
もう一つこの神話で重要なのが、神武はこの剣をもって荒ぶる神を実際に斬ってはいないということである。この剣を振るうまでもなくこの邪神は斬り殺されていた。つまりここには、天上界の武神タケミカヅチの霊威を、この剣を介して発揮する呪術が描かれているということである。
[1] 湯浅泰雄『気・修行・身体』平河出版,1986/湯浅泰雄『日本人の宗教意識』名著刊行会,1988
[2] 顕著な例としては、新当流剣術伝書『兵法自観照』(大月関平、天保13年・1842)や示現流剣術伝書『示現流聞書喫緊録』(久保七兵衛紀之英、天明元年・1781)などがあげられる。武芸伝書ではないが、武芸諸流派の出自を記した『本朝武芸小伝』(日夏弥助繁高、正徳4年・1714)には、「夫れ刀術は、武甕槌命・経津主命、十握剣を抜いて倒まに地に植て、其の鋒端に踞る神術に始る」と記されており、剣術の起源を国譲り神話に求めている。
[3] 藤堂明保『「武」の漢字「文」の漢字』徳間書店,1977
[4] 上田正昭『日本神話』岩波書店,1987/吉井巌『天皇の系譜と神話』塙書房,1976、参照。
[5] 酒井利信『日本精神史としての刀剣観』第一書房,200/酒井利信「刀剣の歴史と思想」連載1~24:月刊『武道』日本武道館、2009.4~2011.3
[6] 神代と人代を区別するためにあえてここでは「神話」ではなく「説話」としているが、神武天皇の件は、内容的には神代の流れを強くもっており、神々の話としての「神話」の要素が非常に強い。
[7] こういった考えに至ったのは、湯浅泰雄『歴史と神話の心理学』(思索社,1984)に示唆を受けた部分が大きい。