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武道のスポーツ化言説とその系譜: 近代日本の武道概念史 中嶋哲也(茨城大学)

武道研究最前線シリーズ⑥

武道のスポーツ化言説とその系譜: 近代日本の武道概念史

 

中嶋哲也(茨城大学)

 これまでの近代を対象としてきた武道史研究者は、明治以降に武道は競技化することでスポーツ化していったと指摘しているが、近年の江戸時代を対象としてきた武道史研究者は既に武術の競技化が進行していたことを指摘しており、武道の競技化はスポーツ化を意味するものではなかったことが明らかとなっている。したがって本研究では、① 明治以降に武道のスポーツ化言説がどのように形成されたのかを明らかにし、②武道のスポーツ化言説に直面した人々がいかに解釈し運用したのかを当時の史料にもとづき明らかにする。
 課題①について、スポーツ化言説の系譜には撃剣興行が存在していた。江戸期以来の旧弊とみられがちな明治期の武術は撃剣興行を通してさらに低俗なイメージを形成していた。そうした中、武術を存続しようとする者たちは旧弊的で低俗な武術のイメージを刷新しようと試みた。実態としては日露戦争後にも操行不良の武術家が多数存在し、試合において不正行為をなすものや、撃剣興行を開く者などが存在していた。
 こうした状況に対応する一手段として武術という名称のもつ低俗なイメージを排撃するため、武道という名称を用いることが提案された。武術から武道への改称を提案したのが大正 8(1919)年に武徳会副会長に就任した西久保弘道であった。西久保は武術の低俗なイメージを「撃剣興行の余弊」と捉え、興行的な武術の在り方を強く戒め、礼儀の徹底を説いた。さらに西久保は武徳会諸規程中の表現として武術を武道へ改称し、柔術、剣術、弓術をそれぞれ柔道、剣道、弓道の各種目についても改称を進めた。
 しかし、西久保の主張は大正 15(1926)年の明治神宮競技大会の前で挫折を経験することとなる。すなわち、この大会では柔道や剣道なども行われることが予定されていたが、競技の名の下に武道が行われること、そして観衆から入場料を徴収することなど、撃剣興行を彷彿とさせる大会当局の方針に西久保は対立したのであった。また、明治神宮競技大会の頃から武道とスポーツはどちらも競技をするという点で同一視されるようになる。各種目別でいえば剣道では昭和 4(1929)年の昭和天覧試合を「社会化」「民衆化」されたスポーツと評された。また、柔道では昭和 5(1930)年から始まる講道館の鏡開式及び昭和 6(1931)年の春期紅白試合が日比谷公会堂で行われることになり、いずれも昭和 6(1931)年から入場料を観客からとるようになるが、これらの大会では柔道の大衆化が企図されていた。こうした大衆文化として武道が広がる過程でスポーツ化言説は形成されていった。
 このような状況は西久保が嫌った武道の撃剣興行と似た一面があったが、既に撃剣興行を知るものが少なくなった 1920 年代においては武道の興行化や競技中心の大会開催の様相をスポーツ化と捉えるようになった。日本の伝統的精神修養文化を標榜する武道関係者にとって武道がスポーツ化していると捉えることは武道の低俗化のみならず、西洋化という文化問題をも孕む危機的な状況であったと考えられる。
 課題②について、本研究では武道国策推進者の藤生と古武道振興会設立者の松本の 2
人に焦点を当てた。
 藤生は武道のスポーツ化を日本精神に基づいた武道国策によって克服しようと試みた。結果として戦時下のスポーツ排撃論と相俟って武道のスポーツ化言説は排除される傾向にあったが、他方で武道の戦技化が叫ばれるようになった。武道の戦技化に対して藤生は「日本固有の武術」は訓育的意義が第一義であるため、戦技化は必要ないことを主張した。特に新武徳会が作成した柔道の試合審判規定では当身技や関節技の規制緩和が行われたが、この試合審判規定を学徒に適用することは怪我を誘発するものとして藤生は痛烈に批判した。
次に古武道振興会の設立と松本の古武道概念の提唱についてである。本研究では振興会設立前史として大島が開催した昭和 5(1930)年 11 月 3 日の奉納武道形大会を取り上げた。この大会に古武道という名称は用いられないが、明治期以降初めて武術流派を主体とした大会であった。松本は大島の協力の下で昭和 10(1935)年に振興会を設立した。また松本は昭和 9(1934)年 5 月の第 2 回昭和天覧試合における柔剣道の選手の試合態度に落胆し、「眞の武道」への復古に共鳴した。そして松本は当時の競技志向の武道に対して明治期以降の西洋化・スポーツ化の弊害という批判を浴びせた。その一方で松本は武術諸流が明治期以前より続く武道の正統性を保持しているとし、その復権を唱えた。松本は武術諸流の総称として古武道を提唱し、武道の競技に対する古武道の型の正統性が主張されるようになり、明治維新が古武道と武道の分岐点となったことを主張した。
 武道のスポーツ化言説に対して各武道論者がとった態度の中でみるべきは明治期の文明開化に伴い、武道のスポーツ化が始まったと批判的な歴史解釈を施したことにあると考えられる。そうした武道のスポーツ化言説の批判的解釈は、古武道振興会という武術流派の文化的意義を発信する拠点を形成した。1930 年代の日本社会では明治維新以来の近代化の問い直しが盛んに行われていたが、そうした社会思潮と武道のスポーツ化言説が相俟って古武道という領域は創出されたのであった。さらに、武道のスポーツ化言説は明治期の撃剣興行のイメージと共通点が多かった。武道のスポーツ化言説に批判する者も、撃剣興行を批判する者も試合が大衆の見世物化していたことを嫌った点で共通していた。武道の大衆の見世物化に抵抗することが近代日本の武道の正統性を主張する戦略の 1 つだったのである。

本稿は、博士論文(早稲田大学スポーツ科学研究科、2011年)の要約です