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直心影流に関する研究 軽米克尊(天理大学)

武道研究最前線シリーズ④

直心影流に関する研究

軽米 克尊(天理大学)

 本研究の目的は、近世中期に興った剣術流派である直心影流の伝承の様相を解明することである。上記の目的を達成するために、①「成立過程」(直心影流がどのような人物を経て成立に至ったか)、②「修練実態」(いかに技術の修得がなされていたか)の2点について論じた。
 第1章では、直心影流がいかなる経緯を辿って成立したのか、また、成立後の系譜・主な分派について論じた。直心影流成立後の伝書の中で流祖とされる松本備前守は、本来、成立過程とは関係がなく、後世、伝承の改変により付加された人物である。これ以降の伝承についても、松本備前守の流儀が継承されていることを主張するため、部分的に書き換えられていた。さらに、後世の伝承では、山田平左衛門光徳が直心影流を名乗り始めたとされているが、実際に直心影流を名乗った人物は、光徳の弟子・長沼四郎左衛門国郷であった。
 第2章では、流派の基本の形である「法定」について考察した。この形は4本から構成され、直心影流の前身となる流派である直心正統流の頃より「法定」と呼称されていた。直心正統流においては、法定の修行が2つの段階に分けられ、第1段階(初級)では身体面を重視し、身体と太刀筋の矯正がなされ、第2段階(中級)では「心行」という精神面に特化した修行が行われていた。
 第3章では、しない打ち込み稽古の基本技術の形「十之形」としない打ち込み稽古について考察を行った。十之形の特徴としては、①相手の様々な動作への対応、②しないを回して相手の打ちを返し、打ち込む技術、③相手の打ちを抜いて避ける技術の3つが挙げられる。しない打ち込み稽古の特徴としては、上段の構え、軽快な足遣い、仕掛け技、引いて打つ技の4つが挙げられる。これらの特徴は他流試合の描写に散見されるが、近世後期に行われた男谷精一郎一門対加藤田新陰流の試合では、上記の十之形、しない打ち込み稽古の特徴を全く見ることができなかった。
 第4章では、近世後期における3つの分派(長沼派・藤川派・男谷派)の各試合・修練形態について、しない打ち込み稽古・形稽古、2つの修練方法から論じた。さらに各試合・修練形態を形成した一要因として剣術観についても言及した。その結果、各派に継承されている形の数が異なること、しない打ち込み稽古において長沼・藤川両派が上段に構えていたのに対し、男谷派のみが精眼・下段に構えていたことが明らかとなった。この構えの相違については、男谷精一郎の剣術観が関係している。男谷は流名により剣術を区別することを批判し、さらに、他流試合により自身の短所を補いつつ、他流の長所を取り入れることを説いていた。そのため、自流の上段の構えにこだわらなかったと考えられる。
 本研究の結果、直心影流の伝承について、大きく分けて2つの点が明らかになった。
 成立過程に関しては、直心影流成立以降の伝書に記される伝承と実際の成立過程が異なっており、直心影流の成立時にそれまでの系譜を改変し、流派の起源として神話を付加したことが明らかとなった。主な改変の1つとして、成立過程に関係のない松本備前守を流祖としたことが挙げられる。これにより、鹿島の地ひいては武神タケミカヅチとの関係を確保し、この神の活躍する神話を精神的な支柱にしようとしたといえる。この改変には日本文化の底層に存在する神道の思想が大きくはたらいているといえる。この点は、後世、基本の形である「法定」の出自が松本備前守と関連して語られるようになることからも窺える。修練実態については、直心正統流の頃に形稽古としない打ち込み稽古を兼修する修練形態となって以降、形の種類の増減等はあるものの、どちらの修練方法も消えることなく、後世まで続いていることが明らかとなった。これは、既存の文化をそのままにしながら、別の新しいものを取り入れることにより形成されてきた日本文化の存在様態をよく表している。

本稿は、平成25年度博士論文(筑波大学体育科学系)の要約です