面技重視の技術観
剣道においては、面技(とくに正面打ち)を多く修練することが尊ばれます。たとえば、種々の素振りで最も多く行われるのは、正面打ち素振りだと思います。また、切り返しも、最初と中と最後に正面打ちを入れるのが一般的です。互格稽古の場面でも、どちらかが最後に面を打ったところで終わる、という光景もよくみられるところです。こうした面技に重きを置く技術観というものは、どのようにして形成されてきたのでしょうか。
現在の試合規則のうえでは、面部・小手部・胴部・突部の四打突部位間に軽重はありません。しかし昭和初年頃までは、審判心得のうえで面技が他の部位に比して重視されていました。昭和四年(1929)の天覧試合を記念して発行された『武道宝鑑』のなかには、高野佐三郎・中山博道・斎村五郎三範士の連名による「剣道審判の心得」がありますが、そこには「飛び込み面は稍々軽くも採る」、「甲が先に胴を撃ち、一瞬の後に乙が甲の面を確実に撃ちたる時は、前後の相撃ちとす」、「甲が先に篭手を撃ちて、乙が稍々後れて左手横面を撃ちたる時も相撃ちとす」と記されています。これらの文言は、1910年に大日本武徳会山形支部が発行した小関教政述『剣道要覧』のなかにもほぼ同様の表現で記されていますので、明治末年から昭和初年頃まで、武徳会の共通見解であったものとみて良いでしょう。
しかし面(頭部)を打つことに価値を見出すことは、江戸時代の中頃まではそれほど一般的ではありませんでした。荻生徂徠などは享保十二年(1727)に著した『鈐録(けんろく)』(巻十一)の中で「敵の頭を目当にして打つを第一とする流は、治世(泰平の世)の結構なり。尤、冑を打わる事もあるべけれども、冑には殊にきたひ(鍛え)に念をも入るれば、戦場には遠き流なりと知るべし」と述べ、戦国期の介者剣術から泰平期の素肌剣術へと移行したなかで、頭(面)を打つことを主眼とする流派がでてきたが、それは甲冑を着用した戦闘からは乖離したものであると指摘しました。
その後、剣道具(おもに面と小手)が1700年代末までには流派を越えて広く普及し、天保期以降は他流試合の解禁もあって流派間交流も進みました。そうしたなかで、面技は他の技に比して難しいものであり、その難しいことをあえて修練することに価値がある、という考え方が流派を超えて広まってきました。
天真白井流を学んだ筒井六華という人が著した『撃剣難波之楳』(1858年)には、「業の内、上段より快く面を打を、搆第一とす」、「面を打には上段を第一とすれども、至てなしがたき業なれば、晴眼・下段より打て可なり」と述べています。また、神道無念流を学んだ小野順蔵という人は、他流の者からなぜ突と胴を打突しないのかと聞かれた時、「突・胴ハ成ヤスク、頭ト篭手ハ切難キ処ナリ。依テ、常ニ難キ処ノ修行ヲ先キトシテ、易キ処ハ学バザルナリ」と答えています(『神道無念流剣術免許弁解』、1867年、『久喜市史』所収)。さらには先にみた内藤高治範士の「一番打悪い所は敵に対して面を撃つ」という言葉も、これらに連なるものだと思います。
他方、幕府講武所頭取を務めた田宮流の窪田清音は、面を打つことの重要性について初学者指導の観点から述べています。窪田は『剣法略記』(1839年)において、「初学び」の段階では「面に篭手に数多くうつべきことなれど、夫がうち面をうつことをむねとして、十度のうち面を七度、こ手を三度うちならふべし」といい、このように心掛けなければ、技の「はたらきかたよるもの」と述べています。また、これらの技は「生れ得しままの正しく直なるかたち」を崩さないようにして打たなければならない、とも説いています。
現在の『剣道講習会資料』においても初心者の正面打ちについて「正面打ちはあらゆる技の基本となるものであり、多くの時間を費やし体得させるように徹底指導することが肝要で」と記されています。正面打ちが剣道技術のなかで最も大事なものとして捉えられてきた理由は、「難しいからこそ価値がある」、「正しい姿勢による面を多く打つことを心がけることによって、初学段階における技のはたらきの偏りを防ぐ」という価値観や指導方法論が受け継がれていることによるものだと思います。