明治維新以後の武芸の危機を救おうと、元講武所の剣術師範であった榊原鍵吉という人物がユニークな発想をする。剣術を興行として行おうというのである。
剣士に勝敗を競い合わせ、これにお客を集めて見物させ木戸銭を取ろうというのである。試合の方法は、相撲のように土俵をつくり四本の柱を立てて、東西に出場する剣士たちがわかれ、呼び出しが呼び出すと中央で試合を開始するといったものであった。
最初にこの撃剣興行が行われたのは明治6年(1873)4月11日から10日間である。これは大成功に終わった。その理由として考えられるのは、それまで一般庶民には縁が遠かった剣術の試合を入場料さえ払えば見ることができたということ、そして出場選手が有名剣士ばかりであったということがあげられる。
この興行の成功から次々と撃剣興行を行う者があらわれ、明治9年(1876)頃には、東京市内だけで20ヵ所余りもあったという。そうなると、観客を集めるために曲芸のような技を使ったり、芝居じみた演出をしたりするようになり、自然な成り行きとして人気を失っていった。
この榊原鍵吉の撃剣興行に関しては、賛否両論ある。
評価するものとしては、失業状態にあった剣術家が生活の糧を得ることができたという点、絶滅の危機にあった剣術の命脈を保ったという点、一般庶民に剣術を紹介できたという点で良かったとする意見である。
反対に批判する立場としては、武士の誇りの象徴であった剣術を見世物にし、その権威を失墜させたという意見、あるいは剣術の技術の本質をゆがめてしまったという意見がある。
文責:酒井利信