明治28年(1895)に武道の統括団体として大日本武徳会が創設される。
大日本武徳会は、武道の奨励・普及・指導・大会の開催・武道家の表彰などの事業を行った。明治32年(1899)には平安神宮境内に武徳殿が完成。明治35年(1902)には、一定の資格を有する者に「範士」および「教士」の称号を与え範士には終身年金を送るという武道家優遇令を制定する。
大日本武徳会の事業で特筆すべきは統一した形の制定である。柔術においては明治39年(1906)に、嘉納治五郎がリーダーシップをとり他流派の意見も取り入れながら「武徳会柔術形」が制定された。同年剣術においても三本の形が制定されたが剣術家の間に不満が多く、33年(1911)から再度、内藤高治や高野佐三郎らが係わり「大日本帝国剣道形」が制定された。これが現在の日本剣道形である。ここでの大きなポイントは、武徳会により統一形が制定されたことによって、それまで別々に存在していた流派の統合が実現したということである。
大日本武徳会においてもう一つ特筆すべきは、明治38年(1905)に武道の学校教育への正課編入の見通しから武術教員養成所を開設し、さらに明治45年(1912)に武道指導者を養成する専門学校として武術専門学校を開設したことである。大正8年(1919)に大日本武徳会副会長兼校長として西久保弘道(にしくぼひろみち)が迎えられる。そこで西久保は、武術よりさらに深い意味を含んでいるとして「武術」ではなく「武道」であるということを主張し、学校名を「武道専門学校」に改名してしまった。同時に「柔術」「剣術」「弓術」という名称を「柔道」「剣道」「弓道」に変え、これの総合名称として「武道」の語を使用するようにした。武道各種目の総合名称として「武道」の語を使うように定着するのはこのあたりからである。
文責:酒井利信