嘉納治五郎(講道館柔道)
万延元年(1860)-昭和13年(1938)
嘉納治五郎は幕末から明治、大正、昭和初期にかけて活躍した人である。嘉納は身体虚弱(成人時:158㎝、58㎏)を克服するために柔術に取り組み、やがて柔術の危険な技を改良し「術」を「道」の文字に変えて、明治15年(1882)5月に講道館柔道を創始する。そして、嘉納は柔道の普及を図るだけでなく、東京高等師範学校校長として師範教育に尽力し、東洋初の国際オリンピック委員も務めたのである。
嘉納治五郎の生い立ち
嘉納は万延元年(1860)10月、嘉納次郎作希芝(まれしば)と定子の三男として兵庫県摂津国御影村浜東に生まれる。次郎作は幕府の船舶を預かり回漕運輸に力を尽くし、維新後は海軍の文官として東京での勤務が多く、嘉納は幼年時代を母・定子と過ごす。後に母のことを、「間違ったことをした時は悪かったと自白するまで許してくれず、また、常に他人の為に自分を忘れて尽くす人であった」と回想している。この慕わしい母も治五郎が9歳の時に他界したので、父に伴われて上京するのである。上京して治五郎が最初に学んだのは生方桂堂(うぶかた・けいどう)の書塾であり、ここで漢学や国史略、書道などを学ぶ。やがて生方の勧めで13歳の時、芝烏森町にある外人教師中心の育英義塾に入学し、初めて父の元を離れて寄宿生活に入る。嘉納は勉学では優秀であったが身体が小さく、先輩達はねたみ嘉納をいじめたので、この頃より「柔よく剛を制す」術と言われた柔術に関心を持つのであった。
柔術修行のきっかけ
明治8年(1875)、嘉納15歳の時に官立開成学校(後に東京大学となる)に入学するが、旧武士の子弟が多数いて、学問とともに肉体的に優れている者が幅を利かせていた。負けず嫌いな嘉納は、これまで以上に強くなりたい思いが増して柔術の師匠を探し始める。維新直後で欧米の文明が推奨され武術は衰退していたが、それでも嘉納は福田八之助を見つけて当身(あてみ)や逆技(ぎゃくわざ)中心の天神真楊流(てんじんしんようりゅう)柔術を学ぶ。さらに、他の流派も学びたく鎧を着て行う投げ技中心の起倒流(きとうりゅう)柔術も学ぶ。嘉納は流派によって技が違うことを強く感じたのである。
嘉納は柔術を暫く稽古していると、身体が強くなっただけでなく智育や徳育にもなると感じ、こうした経験を多くの人と分かち合いたいと考え、柔術の当身や逆技などの危険な技を改良して誰もが行える乱取(らんどり)を開発する。そして大正4年には、柔道の目的として「己の完成と世を補益する」を発表し、自分の完成を図りつつ世の為になることを説く。幼年期に学んだ母の「他人の為に尽くす」という精神は、生き続けていたのである。
嘉納の乱取開発
柔術の多くの流派の稽古法は、あらかじめ技の方法と順番が決められた「形」が中心であった。しかし、嘉納が学んだ天神真楊流と起倒流柔術は比較的乱取が行われた流派であった。特に、起倒流は鎧を着て行う柔術であったため、前後左右に崩れない「本体」(ほんたい)(後の自然本体)の姿勢が重視され、また鎧着用により当身技は利かず、組んで行う投げ技が中心であった。また「形」の稽古中に、取形(とりかた)(技をかける人)の技が利かない時は請立(うけたち)(技を受ける人)は倒れず、また取形が未熟な技であれば逆に請立が攻撃を加えるといった「残り合い」(のこりあい)も生まれる。この「残り合い」を発展させたのが乱取であった。明治18年頃に嘉納は起倒流の師・飯久保恒年(つねとし)との乱取中に、相手を崩してから技を掛けることを発見し、「崩し」「作り」「掛け」の原理を修行者に教えていくのである。
柔術の稽古衣は上衣も下穿(したばき)も短い短袖短袴であったが、嘉納は明治19年頃に稽古衣の袖を長くして怪我を避け、袖を利しての体落(たいおとし)や背負投などの手技が発達する。また、明治33年(1900)に制定の「試合審判規程」において、「仰向けに」「ハズミをもって」倒すことを「一本」の条件と表し、柔道の普及を図ったのである。
嘉納の修学と柔道思想
嘉納の修学を覗いてみる。5歳より地元で儒者・山本竹雲より「四書五経」を学び、11歳から生方桂堂に国史略や日本外史等を修学した。また、明治10年(1877)、東京大学文学部・史学哲学及び政治学に編入すると、在学中は漢文学や哲学を学び、さらに学士入学後は道徳教育の研究を行う。こうした点で嘉納の精神的背景には儒教があったと言える。一方、嘉納は大学2年次から米人・フエノロサより政治学と理財学(経済学)も学び、特に「自分の能力を最も有効に使用して自分と同時に他人の為になる」という功利主義思想を学んだのである。
嘉納は講道館創設当初は、柔道の目的として「体育、勝負,修心」を挙げ、「修心」では克己や礼節などを身に付けることを説いた。ここには儒教の影響が見られる。また、柔道の原理を「相手の力に順応しその力を利用して勝つ」という柔術の柔の理で説いた。しかし、やがて「心身の力を最も有効に使用する」という新原理を編み出す。ここには、柔道は心身を全て活用して攻撃するという技術の原理によるが、一方で西洋功利主義思想の影響も見られる。そして心身の力を精力にまとめ「精力善用」という4文字としたのである。一方、嘉納はたびたび外国の教育事情も視察し、仏国では宗教を離れて道徳を説くブイッソンと親交が深かった。嘉納は晩年に道徳協会会長も兼ね、誰もが納得できる道徳として「自他共栄」を発表したといえる。嘉納が「精力善用自他共栄」を発表したのは大正11年(1922)、62歳の時であった。
教育の父、体育の父
嘉納は若い頃、大学を出て総理大臣になろうか、それとも千萬長者になろうかと考えたが、男一匹、生涯を捧げて悔いのないものは教育しかない、という結論に達して教育に向かった。まず学習院に赴任し政治・理財学を講じ、やがて教員を養成する高等師範学校校長を23年間にわたり勤める。師範学校の特徴は、喜んで教育を天職と考える人物を養成することであると考え、天下の碩学(せきがく)を集めて、将来教師となる学生に自信と自立を涵養する。また、嘉納はスポ-ツや武道は身体強健と道徳も養われると考え、全学生に柔道や剣道とともに陸上競技やサッカ-、テニス等を奨励し、師範教育に尽力した。
さらに、近代オリンピック創始者・クーベルタンの要請で東洋初の国際オリンピック委員となり、五輪に参加する選手選考の為に明治44年(1911)に大日本体育協会を創設し初代会長となる。そして大正元年の第5回オリンピック大会に初参加したのである。昭和15年(1940)は日本建国2600年に当たるので、これを機に第12回オリンピックを東京で開催しようと奔走したが、氷川丸船上で78歳の生涯を閉じたのである。
嘉納は師範教育の先駆者であり、また国際的な体育人でもあったのである。