宮本武蔵(二天一流)
天正12年(1584)/天正10年(1582)-正保2年(1645)
宮本武蔵は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した、無敵の剣豪である。二刀を携えて戦ういわゆる二刀流を確立し、多くの実戦経験から独自の剣術論を構築して『五輪書』という伝書を書いたといわれている。武道史の中で、日本のみならず世界中で最も有名な剣豪といってよい。
しかしその知名度とはうらはらに、彼の人生には謎が多く、また史実と異なった伝説が多く伝えられている。
武蔵の生い立ち
武蔵の生年は、天正12年(1584)とするのが通説であるが、近年、天正10年(1582)であるとする最新の研究成果もある。
出生地についても、美作(みまさか)とする説と播州とする説がある。美作説は現在の岡山県にあたる作州宮本村の新免無二のもとに生まれたとする説であり、播州説は今の兵庫県にあたる播州米堕(よねだ)村の田原家貞の次男として生まれたが後に作州の新免無二の養子になったとする説である。武蔵が晩年著したといわれている『五輪書』には自らを「生国播磨の武士」と記しており、また最新の研究成果の報告などから考えると播州説が有力であるように思われる。
武蔵の養父である無二も、相当の武術の使い手であった。室町幕府最後の将軍であった足利義昭の御前試合で、将軍の兵法師範であった吉岡憲法に勝って、「日下無双(ひのしたむそう)」の称号を賜ったほどの腕前であったという。十手や二刀を使う当理流という武芸流派を創始している。当然武蔵は養父からこの当理流を仕込まれていたはずであり、このことが後に二天一流として二刀流剣術を完成させることにつながったとも考えられる。
武者修行時代の武勇伝
武蔵は『五輪書』の中で自らの前半生について触れている。若年のころから剣の修行に励み、13歳の時に初めて新当流の有馬喜兵衛という剣客に打ち勝ったという。わずか13歳の少年が腕自慢の大人を打ち倒しているのである。16歳にして但馬の国の秋山という猛者に打ち勝ち、21歳で京にのぼって天下の兵法者と数度の勝負をしたが全てに勝をおさめたと述べている。具体的な記述はないが、これには吉岡一門との三度にわたる決闘が含まれている。その後、全国各地を廻り様々な流派の者と60数度も勝負をしたが負けることがなかったという。
武蔵は慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに西軍の宇喜多秀家の軍勢の一員として参戦し敗残兵となっているが生きのびている。このことについて『五輪書』は触れていない。
また『五輪書』には何故か名前すら記されていないが、慶長9年(1604)の京における吉岡一門との決闘は有名である。吉岡一門は先に述べたように足利将軍家の兵法師範を務めた名門であり、先代が武蔵の養父である無二に御前で敗れたという因縁がある。最初の決闘は当主である吉岡清十郎との戦いであり、これを一撃で倒している。つづく弟の伝七郎も倒し、三度目は清十郎の子である又七郎を立てて一門の者がなりふり構わず数十人で武蔵を倒そうとするが一人で戦い抜いて勝っている。多数の敵を相手に勝ち続ける、武蔵の並外れた強さを物語っている。武蔵はこの一連の試合で一躍有名になった。武蔵にとって自信にもなったようで、この後、自ら円明流という流派を創始したようである。
以上、13歳から28・29歳ぐらいまでの武者修行時代の武勇伝である。
巌流島決闘の虚構
武蔵の武勇伝の中で最も有名なものが巌流島の決闘である。通説によると慶長17年(1612)(一説によると慶長15年)に、小倉藩の剣術師範で「西国一」と剣名の高かった巌流の佐々木小次郎と戦った決闘である。決闘は関門海峡にある「船島」という小島で行われた。この島は後に小次郎の流名をとって「巌流島」と呼ばれるようになる。
世間一般に知られている巌流島の決闘は、以下の通りである。
武蔵は決闘の時刻に大きく遅れ、船島に渡る舟の中で櫂を削って作った木刀を携えて悠然と現れる。武蔵が現れないことに焦れていた小次郎は、自慢の「物干竿」と異名をとる長大な刀を抜いて鞘を投げ捨てる。その刹那に武蔵は言った。「小次郎、敗れたり」。「勝つもりであればなぜ鞘を捨てる」。勝敗は一瞬でついた。小次郎の一撃で武蔵が額にしめていた手拭が二つに切れて飛んだが、その瞬間、武蔵が櫂の木刀で小次郎の頭を打ち砕いていた。遅参による心理作戦で武蔵が見事に小次郎を打ち負かしたというのが、巷に言い伝えられている巌流島の決闘である。
しかし史実は異なっている。宮本武蔵の名が世間に広く知られるようになったのは、吉川英治が昭和初期に書いた小説『宮本武蔵』の人気によるところが大きいが、この話はその一場面でありフィクションである。そもそも吉川英治の小説は、武蔵が亡くなって130年余たった安永5年(1776)に豊田影英が著した『二天記』をネタ本としており、これ自体がフィクションである。武蔵没後9年の承応3年(1654)に養子の伊織が建てた「小倉碑文」には「両雄同時相会す」と記されており、こちらの方が信憑性が高い。現在学会では、武蔵は遅参していないというのが定説となっている。
そもそもこの試合は、藩主である細川忠興(ただおき)の許可を得て藩の役人立会いのもとで行われた公式な試合であり、戦略としての遅参など考えられない。世間一般に知られている巌流島の決闘はフィクションが歴史化したものである。
謎の20年
武蔵は『五輪書』の中で、30歳になって振り返ってみると自らの剣術が本物でなかったことを悟ったという。恐らく巌流島の決闘の直後あたりであろうと思われるが、武蔵の中に大きな転機があったようである。更に厳しい修行を積んで剣の真髄を会得したのは50歳のころであったと述べているが、この30歳から50歳までの20年間は謎に包まれている。
わずかに分かっていることを記すと、慶長20年(1615)の大坂夏の陣には参陣していたようである。これまで武蔵は大坂方で戦ったとされてきたが、近年反対に徳川方で戦ったことを証明する史料が発見されている。
大坂の陣の後、姫路の本多藩に身を寄せ、三木之助を養子に迎えている。
寛永3年(1626)に伊織を二人目の養子とし、明石の小笠原忠真(ただざね)に出仕させ、自らも小笠原家に身を寄せた。
寛永15年(1638)に伊織とともに島原の乱に出陣している。
寛永17年(1640)、熊本藩主である細川忠利に客分として招かれる。武蔵は晩年に召し抱えてくれた細川忠利に大変感謝していたようであり、寛永18年(1641)に武芸を好む藩主に自らの剣術理論を余すことなく記した『兵法三十五箇条』を呈上している。しかしその一ヶ月後、忠利は他界している。武蔵の落胆は相当のものであったようである。
『五輪書』の謎
宮本武蔵を語る上で欠かせないのが『五輪書』である。中世後期から近世初期にかけて武術が最も実用性をもっていた時代に多くの実戦を経験し、その中で積み上げてきた理論を文章として残した『五輪書』は武道史において非常に貴重である。
しかし『五輪書』には武蔵直筆の原本が存在しない。現存するものは、いくつかの写本のみである。このことから学会では、「本当に武蔵が書いたものか」という疑問が呈され様々議論されてきた。私見を述べれば、『五輪書』は完成したものではないが、武蔵が草稿として書き残し弟子に与えたものであろうと考えられる。根拠はいくつかあるが、先ずは文章が粗削りであり整えられていないということがあげられる。例えば、地・水・火・風・空と五巻あるが、自らの流派名を地の巻と水の巻では「二天一流」と書いているが、その後の火・風・空の巻のでは「二刀一流」としている。「円明流」から「二天一流」と流名を変える時期であったと考えられるが、自らの流派名すら統一できていない。つまり「二刀一流」として一回書き通したものを、再度最初から推敲しつつ「二天一流」として書き直し、水の巻で終わっているということである。すなわち、未完成である。武蔵以外の例えば弟子が書いたのであれば、こういったことはおこらない。要するに武蔵の書であることは間違いなというのが、私の説である。
晩年の武蔵
熊本へ招かれてからの武蔵は、柳生宗矩の直弟子である雲林院弥四郎(うじいやしろう)や棒術を使う塩田浜之助と試合をし、全く寄せ付けなかったことなどが伝えられているが、細川忠利が亡くなった後の晩年は、参禅し水墨画を描くような生活をしていたようである。
武蔵は、細川家の菩提寺である泰勝寺の禅僧と親交を深めていたようである。通説では春山玄貞(しゅんざんげんてい)和尚と親しかったことになっているが、新たな学説としてその師である大淵玄弘(だんえんげんこう)和尚と親交が深かったのではないかということが指摘されている。いずれにせよ「仏神は貴し、仏神をたのまず」(仏や神は貴いが、これを頼みにすることはない)と豪語した武蔵であるが、晩年禅の世界に身を置くようなところもあったようである。
寛永20年(1643)霊巌洞にこもり『五輪書』の執筆を始め、正保2年(1645)未完成のまま直弟子である寺尾孫之丞(まごのじょう)にこれを渡したのであろう。最後の力をふりしぼり同年5月12日に『独行道(どつこうどう)』をしたため、数日後の5月19日に亡くなっている。