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蹲踞(そんきょ)

長尾  進(明治大学)
月刊『剣道日本』2010年7月号掲載、「常識にクエスチョン」シリーズ所収。
『剣道日本』誌の許可を得てここに転載します)

剣道では、なぜ蹲踞をするのでしょうか

 剣道では、試合や立会の前後の礼において蹲踞を行ないますし、稽古の間にも蹲踞を含んだ礼を行ないます。これはいつごろから行なわれるようになったのでしょうか。
 前号でも紹介した加藤田新陰流の伝書には、幕末における試合の様子が実に詳細に記されていますが、そのなかに『剣道初学須知』(万延元年)という伝書があります(同書についても、村山勤治先生が詳しく研究されています)。この『剣道初学須知』のなかに「折敷(おりしき)作法」という項目があり、意訳すると、「折敷の仕方は、まず足と足の間を狭く撞木(しゅもく)に踏んで、その上に腰を据え、股の開きを広くして左膝を着き、右膝は少し起して、顔は俯(うつむ)かず仰向(あおむ)かず真っ直ぐにして、首は後のうなじに力を入れて、両肩の落ちるように背筋を真っ直ぐに、尻は出さず、腰の屈(かが)まないようにして、下腹を張りなさい。折敷では、先師も、心の下の作りものこそ大事だと仰った。心の下の作りものとは、未だ試合をせぬ前に敵に勝つ術、を工夫しておくことである。よくよく、工夫鍛錬しなさい」とあります。
 ここで見られる「足と足の間を狭く撞木に踏んで、その上に腰を据え」というのは蹲踞と形態が似ていますが、左の膝は着いており、現代剣道で行なわれる蹲踞とは若干異なります。「折敷」というのは片膝を着くことをいい、近世後期から近代にかけての文献によく見られる言葉で、剣道技法の一つでもあります。たとえば北辰一刀流の「剣術六十八手」(『千葉周作先生直伝剣術名人法』ほか所収)にも、「居鋪(おりしき)籠手(こて)」というのがありますが、これは現代風にいえば、かつぎ小手を打つときに左の膝を着きながら打つことをいいます。
 話を『剣道初学須知』に戻しますと、「折敷作法」より前段に「試合前之覚悟」という項目があり、そのなかに「折敷の時、当流(加藤田新陰流)では一礼しないのが作法である。ただし、掛かり手は目上の人に対し、『引き立て(稽古)をお頼みします』という心で、丁寧に必ず一礼するべきである。先輩の人もそれに応じて一礼する」(筆者意訳)とあります。これは、同輩や他流との稽古・試合では礼をしない、とも読める記述ではありますが、いずれにしても現代剣道の礼のルーツはこの辺りにありそうです。
 また、前出『千葉周作先生直伝剣術名人法』には、直心影流の稽古の様子を記した箇所があります。意訳すると、「直心影という流派は至極の剣術で、ひと勝負ごとに折り敷き、または箕居(ききょ)(音の同じ「跪居」〈両膝を着き、爪先を立て、かかとの上に尻をおく〉の誤記か…筆者)して、ハッハッと大息をつき、立ち合えば上段に取り、直ぐ打つ気合になり、始終先々と廻る。…中略…。又立ち合うとき、相手が早く立ち上ろうとすれば、マダマダと声を掛け、始終相撲の立ち合いのようである。ハッハッと大息を継ぐのは、動悸を早く納めるためである」という内容です。
 現代剣道における「蹲踞」は、近世剣術におけるこうした「折敷」や「跪居」(跪坐)の名残りが、形を変えて受け継がれているとみることができるでしょう。おそらくはそれが、明治末年から昭和初期にかけて、大日本帝国剣道形(今日の日本剣道形)の制定・普及に伴って現代のような蹲踞(やや右足を前にして右自然体となる蹲踞)が一般化したものと思われます。その折に、加藤田新陰流でいう「未だ試合をせぬ前に敵に勝つための、心の下の作り」や、直心影流にみられる「動悸の速やかな納め方」などの意義・意味が蹲踞(折敷や跪居も含めて)に込められていたのでしょう。
 さて、蹲踞の「蹲」の字は、「うずくまる」と読みます。「踞」の字も同様に、「うずくまる」と読みます。また、茶道での「蹲踞」は「つくばい」と読み、茶室に入る前に手を清めるための手水鉢(ちょうずばち)を低く据えてあることを指します。手水は神社などにもある手や口をゆすぐためのものですが、蹲踞(つくばい)では手を洗うときにつくばって(しゃがんで)洗うことになり、体勢を低くして手を清めることで、茶室という特別な(神聖な)空間に入っていくための心身の準備をするという意味があるようです。このことから考えれば、「蹲踞」という字を当てる剣道や相撲のあの姿勢にも、これから特別な(あるいは神聖な)時間・空間のなかに入ってお互いの技量を正々と(あるいは、清々と)試しあう、ということが表出されているのかもしれません。たしかに相撲の蹲踞は、土俵に上がって行なう塵手水(ちりちょうず)のときにとる姿勢であり、そこから礼法でいう指建礼的なポーズをとり、拍手の後両手を左右に広げ、さらに掌を返して、「身に寸鉄も帯びていない」ということを表明します。
 また、相撲の稽古においては、一番ごとに蹲踞の姿勢で呼吸を整えている姿も一般に知られているところであり、これなどは先に見た直心影流の「動悸の速やかな納め方」に通じるものがあります。では、なぜ立った姿勢ではなく、蹲踞なのか。おそらくは、その方がより下腹部や股関節部への意識が鮮明となり、丹田呼吸による迅速なリカバリーを可能にするということが、経験的に伝えられてきているのかもしれません。

 このように蹲踞は、特殊な(神聖な)時・空間への立ち入りに対する敬虔な態度の表出としてや、呼吸法の一姿勢として日本の伝統文化のなかに息づいているものであり、剣道の場合それに加えて、近世剣術から受け継いだ、「未発のうちに勝ちをおさめる、という心法をも含んだ礼法の一形式」としての意義があるといえます。