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剣術三大源流とその系統

 近世の武芸を主導したのは剣術であるが、剣術の流派には大きく三つの系統があった。
 それぞれの系統の源流は、中世後期の剣豪である愛洲移香(あいすいこう)・飯篠長威斎(いいざさちょういさい)・中条兵庫頭(ちゅうじょうひょうごのかみ)が創始した流派である。
 まず一つ目は、愛洲移香が創始した陰流を源流とする系統である。この陰流を学んだ上泉伊勢守が創始したのが新しい陰流という意味をもつ新陰流である。そして上泉に試合を挑み敗れて弟子になった柳生宗厳(やぎゅうむねよし)は、柳生家において新陰流を継承する。一般には柳生新陰流あるいは新陰柳生流ともいわれているが、正式な名称は単に新陰流である。柳生宗厳の五男である柳生宗矩(むねのり)が江戸においてこの流派を引き継ぐことになる。父である宗厳は、文禄3年(1594)に徳川家康の要請によって剣の技を披露した。徳川家康とは、後に天下統一を果たし慶長8年(1603)に江戸幕府を開いた、日本史上大変に重要な人物である。この時、家康は自ら木刀をもって立ち会ったと伝えられている。ここで新陰流の極意である無刀取りの技に感服した家康は、その場で宗厳に入門を申し入れる。宗厳は高齢を理由にこの申し入れを断るが、これが縁で息子である宗矩は徳川幕府成立後に将軍の剣術師範として活躍することになる。宗矩は幕府の要職につき、大名にまで登りつめた。当時、最も出世した剣術家といってよい。愛洲移香の陰流、上泉伊勢守の新陰流、柳生宗厳・宗矩親子の柳生新陰流と流れる剣術流派の系統は、政治色を帯びつつ発展した最もメジャーな系統の一つである。
 二つ目は飯篠長威斎が創始した神道流を源流とするものである。神道流は香取神宮とゆかりの深い流派である。これとは別に古来、鹿島神宮を中心として発展してきた鹿島の太刀と称する流派がある。鹿島神宮の神官たちが習い伝えてきたものであり、同一系統のものを時代とともに鹿島上古流(かしまじょうこりゅう)、鹿島中古流(かしまちゅうこりゅう)と称してきた。剣豪として名高い塚原卜伝は、そもそも鹿島神宮の神官であった吉川家に生まれ、鹿島に伝わる剣を習い育つ。彼は次男であったために塚原家に養子に行く。この養子に行った先の養父から、今度は神道流を習う。こういった事情から、塚原卜伝は剣術三大源流の一つである神道流に、鹿島に伝わる剣術を融合させて新たな流派を作った。これを新当流という。飯篠長威斎の神道流から、鹿島の太刀の系統を融合させつつ、塚原卜伝の新当流に流れる系統は、非常に神道的な宗教色を帯びつつ発生展開したものである。
 三つ目の系統は、中条兵庫頭長秀(ちゅうじょうひょうごのかみながひで)が創始した中条流を源流とするものである。この系統を受け継ぐのが伊藤一刀斎(いとういっとうさい)が創始した一刀流である。一刀斎の弟子には神子上典膳(みこがみてんぜん)忠明などがいた。典膳は後に小野次郎衛門忠明と名乗って一刀流を継ぐ。小野派一刀流として新陰流同様に幕府の剣術指南となる。柳生宗矩のように幕府の要職に就いて出世するということはなかったが、江戸時代を通じてこの一刀流系統も非常に栄えた流派である。中条兵庫頭の中条流から伊藤一刀斎の一刀流、そして小野派一刀流へと流れる系統は、近世剣術三大系統の一つであるばかりでなく、現代剣道の技術に最も影響を与えたといってよい。

文責:酒井利信