Budo World

三十三間堂の通し矢競技

 武術の中で最も早く競技化したのは弓術である。
 江戸時代、藩対抗の一大イベントにまでなり異常なまでに盛り上がりをみせたものとして「三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の通し矢競技」というものがある。
 これは京都にある蓮華王院(れんげおういん)という寺院の軒下を、端から端まで矢を射通すことを競う競技である。この寺院の軒下は非常に長く約120メートルもある。軒下にある柱と柱の間が33あることから、通称三十三間堂と呼ばれている。この軒下は幅が約2.2メートル、高さが約5メートルしかない。従ってここを端から端まで120メートルもの距離を天井にも当たらずに射通そうとすると、相当強い弓を引いて低い軌道で正確に矢を飛ばさなくてはならない。現在ではこれを射通せる人は少ないといわれている。
 慶長11年(1601)から始まり慶応2年(1866)まで約250年間もの長きにわたって行なわれていた競技である。あまりの盛り上がりから、京都のみならず東京にも同様の施設をつくって競技が行われていた。
 競技形式には色々あったようであるが、最高の華であったのが「全堂大矢数(ぜんどうおおやかず)」といわれるもので、矢数に制限を加えず24時間ぶっ続けで射つづけ、射通せた数を競うというものであった。
 貞享(じょうきょう)3年(1886)に優勝した和佐大八郎(わさだいはちろう)という人は、24時間で13053本の矢を引いて、そのうち8133本を射通したという。単純に計算しても6.61秒に一本矢を射たことになる。しかし途中に休憩もし食事もしたであろうから、もっと短い間隔で矢を射ていたことになる。
 射法も特殊で、小さな腰掛に腰をおろして膝組みの姿勢から矢を射る。天井に矢が当たると失敗になってしまうため、上の空間を広くとるための工夫である。
 競技者も藩の威信をかけて戦っていたため相当激しい訓練をつんだようである。また競技者だけでなく、矢を選定する人、記録員、判定員、応援要員、弓職人、照明係などが随行し、膨大な費用を費やして藩をあげて取り組んでいた。
 これに優勝したものは藩の英雄であり、社会的・経済的に優遇された。もはや敵と戦う武術ではなく明らかに競技である。

文責:酒井利信